種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(1)

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「私がM&Aで病院グループを構築した」と言う種子田吉郎の大うそ
種子田益夫が病死したのは今から4年ほど前の令和元年10月13日のことだった。それが大きな理由になったのか、「常仁会病院グループ」(晴緑会、明愛会、白美会の各医療法人を傘下に全国に7医療施設)の理事長の座にある長男の吉郎が、病院グループをさも吉郎自身が創設から築き上げて来たかのような発言を大っぴらに繰り返しているようだ。そうした事実など一切ないにもかかわらず、何故そんな大きな口が叩けるのか。病院グループの創設に関わった関係者の多くが死亡し、あるいは益夫が率いていたアイワグループから去って行った中で、「私が支配者だ」と広言しても誰からも吉郎に対して抗議はおろか文句の一つも出るはずがない、とでも思っているのだろうか。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

インターネット上で経営者を紹介する「注目社長情報館」というサイトがあり、そこで吉郎がインタビューに答えているが、その一部を以下に抜粋する。
〖私(吉郎)の性分では、サラリーマンには向いていないということを自分でも理解してました。そんなことを考えていた時に出会いがあり、倒産寸前の病院の話しを頂きました。「どうせサラリーマンは出来ないしやってみるか!」と引き受けたのが病院経営の始まりでした。その病院を立て直したら、色々なM&Aの話が舞い込む様になり、気が付いたら経営する施設が増えていたと言う状況です〗
これを読むと、吉郎は常仁会病院グループを自力で立ち上げ、現在の姿に築き上げたという印象を周囲に与えるが、全くの嘘だ。吉郎がこのインタビューの中で、父益夫の死を「一昨年」と語っているので、令和3年に収録され掲載されたものだろうが、もし、益夫や何人かの幹部が生きていれば、絶対に言えない嘘を吉郎は語っている。
倒産寸前の病院の話をしたのは誰か? その病院はどこにあり、どのように立て直したというのか? 吉郎には答えられるはずがない。何故ならば、吉郎は日本大学を卒業後、わずか1か月ほどアメリカの医療施設等を視察する旅行に参加した後、何の資格も経験もないまま、益夫が全資金を調達して買収した病院施設を統括する東京本部の常務に就き、それが吉郎のスタートとなったからだ。お膳立てをしたのは父の益夫であり、その側近の一人だった田中延和氏であった。その田中氏が書いた陳述書には以下のように書かれている。

(写真:益夫の側近だった田中延和氏の陳述書 吉郎が知識も経験もないまま知益夫が買収を進めた病院グループの役員に就いて行った経緯を語っている)

〖種子田益夫氏は私に病院経営を一緒にしないかと誘われ、その折、長男の種子田吉郎氏が大学を卒業したので、これを機会に1か月間アメリカの医療状況を見てくるように言われ、二人でツアーに参加しました。これが吉郎氏との出会いであり、病院経営の始まりでした。そして、大阪、高知、九州(2か所)、計4カ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り、私が専務取締役本部長になり、吉郎氏が常務というポストに就きました。基本的な方針は、種子田益夫氏から私共に指示があり、これに基づいて具体的な方針を実行していきました…〗
これを見ても分かる通り、吉郎は右も左も分からないまま、ただ田中氏に付いて周囲をうろちょろしていたに過ぎなかったのである。もし、吉郎がインタビューにあるように、持ちかけられた病院の立て直しから事業に目覚め、そして病院を立て直したら色々なM&Aが舞い込んできたという話が事実ならば、その経緯を明確に示してみるがいい。M&A対象の病院はどこか、その資金はどうやって調達したのか、立て直しのノウハウは何だったのか等を全て明らかにできるのか。病院グループの収支が赤字で益夫から厳しく叱責され、吉郎が泣きべそをかいていた姿をアイワグループの社員が何人も見ていたのだ。そんな吉郎に病院を立て直すどれほどの力量があったのか、吉郎自ら明らかにすべきではないか。

刑事事件の渦中で父益夫病院死守のために吉郎を牛久愛和病院の理事長に
病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は、益夫が昭和61年に買収し、吉郎が同病院の理事長に就いたのは平成11年のことである。益夫は病院を買収するたびに吉郎を理事長職に就かせたが、それは益夫が反社会的勢力と密接な関係にある事が周知の事実であったことと、いくつもの前科前歴があって、厚生省や地元自治体が許可しなかったから、益夫も止むを得ずダミーを立てるしかなく、吉郎の成長を待って順次理事長に就かせ、益夫自身はオーナーとして病院グループに君臨した。牛久愛和総合病院も同様だった。そして平成11年当時、3つの金融機関の不正融資事件が表面化したことで、金融機関からの本格的な債権回収を受けることを見越して、益夫はアイワグループと病院グループを切り離す工作を進めた。吉郎は益夫に言われるまま理事長としての役割を演じていたに過ぎない。
田中氏によれば、東京本部を開設したものの、傘下のどの病院も収支のバランスが合わず、不足資金は「全て種子田益夫氏から資金援助を受けておりました」と陳述している。そこには何の知識も経験もない吉郎の出る幕など全く無かったのが実情だった。

(写真:平成6年に作成された公正証書。6000万円、1億2000万円、15億円、25億円の4通が作成された)

とはいえ、益夫はさらに経営不振に陥った病院を買収し続け、既存の病院と共に維持を図っていく資金の調達を迫られた。債権者から融資を受け始めた平成5年から同6年にかけて、益夫は返済もろくにしないままさらに融資を受け続けたのである。債権者の手元にある公正証書は4通あって、6000万円と1億2000万円、15億円の3通が平成6年8月16日付、1通は25億円で同年10月13日に作成されている。これら合計41億8000万円(元金)のほぼ全てが病院施設の買収資金になり維持費に消えたのだ。債権者への返済がない中で新たな融資を依頼する種子田に債権者が「これ以上は無理だ」と言うと、益夫はあろう事か債権者が知る森重毅ほか数人の名前が書かれたメモを差し出し、それぞれに連絡をして融資をお願いして欲しいという。益夫の依頼は執拗で、債権者が連絡を取るまで帰ろうともしなかった。債権者は、益夫が金を調達するまでは梃子でも動きそうにない様子に呆れ果てた。そうした中で益夫が「病院を担保に入れます。病院は備品のコップ一つまで全部私のものですから」と言い、さらに「病院の理事長は息子の吉郎にさせていますが、吉郎は『父からの預かり物なので、必要に応じていつでもお返しします』と言っているので、何の問題もありません」と言うのを債権者たちは何度も聞いて、融資に応じてきた経緯があった。債権者たちによる益夫への融資はその後も続いていたが、益夫は借りる一方で返済を滞らせ続けた。
平成8年頃になると、武蔵野信用金庫と国民銀行を巡る不正融資事件が表面化したことで益夫の周辺が慌ただしくなり、ただでさえ債権者たちから逃げ隠れしていた益夫がさらに連絡を疎かにして債権者たちから足を遠ざけていた。そして東京商銀信用組合でも不正融資事件が表面化すると、益夫は検察の取り調べを理由に電話で直接応対することも無かったようだ。

(写真:債権債務の計算書 平成15年当時、益夫が返済を滞らせ続けたために債務総額は368億円余に膨らんでいた)

この間、益夫の秘書的な存在だった梶岡氏や田中氏が、経理担当者の北條紀美子氏が作成した債権債務の計算書を携えて債権者の会社を訪ねてきて、債権者に担保で預けた手形や小切手等の切り替えが行われていた。
前述したように益夫は病院を担保にすると言っていたが、債権者たちがいくら手続きを進めようとしても曖昧な態度を取り続け、「病院を監督している厚生省(現厚労省)や地元自治体の監視が厳しく、なかなかクリアーできないので、しばらく時間を下さい」と言い訳をし、それに代わるものとしてアイワグループの事業であるゴルフ場の会員権を大量に持ち込んだり、イタリアのゴルフ場の売却代金や会員権の販売代金を返済に充てるという念書を差し入れていたが、会員権はすでに益夫が定員を上回る数を乱売していたために、評価はほとんどなかった。そのため、債権者が病院を担保にする手続きをするよう求めても、「少し時間を下さい。必ず約束は守りますから」と言う益夫の言葉を田中氏も梶岡氏も何回も聞いていた。(以下次号)

2023.05.25
     

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