種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(2)

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「牛久の病院は時価500億です」と言いさらなる融資を依頼
平成15年5月、益夫がようやく債権者の会社を訪ねて来た。その際に益夫は経理担当者が作成した計算書に捺印することで債務承認をしたが、その時点での債務額は元利合計で約368億円に上っていた。しかし、益夫は臆することも無く「牛久の病院は、今、500億円以上の評価があります。だから500億円まで貸してください。病院を売却して必ず返済します」と言ったのである。しかし、益夫は債権者たちに約束した病院を担保に供する手続きをすることなく、平成16年に有罪判決が下され服役してしまった。

(写真:種子田益夫)

本来であれば、病院施設の買収・維持に関わる資金を債権者から調達する際に、吉郎自身も連帯保証人として名を連ねるとともに、病院を担保提供する手続きを吉郎自身が進めるのが当然だったはずだ。「息子は、父親からの預かり物で、いつでもお返しする、と言っているので、しばらく待って下さい」と益夫は債権者に何回も言っていた。
これは、益夫が服役中にあったことだが、債権者が吉郎に会いたいと要請したのに対し、益夫の顧問弁護士を務めていた関根栄郷が「絶対に会わせてはいけない」と言って厳しく止めていたようだが、それでも田中氏が一度吉郎を説得して、債権者に電話をかけさせたことがあった。しかし、その時、吉郎は債権者に「社長さんの周りは金持ちばかりなので、そちらで何とかして下さい」と言うや、一方的に電話を切ってしまい、折り返しで債権者がいくら電話をかけても吉郎は一切応答しなかった。それが、父親の指示で理事長に就いたダミー的な存在でしかなかったにしても、吉郎の取るべき態度ではないことは、誰の目にも明らかだった。
関根栄郷弁護士は、益夫が依頼していた15人ほどの弁護士が益夫のやり方に愛想をつかして辞めていく中で一人残った悪徳弁護士として有名だった。毎晩のように銀座に出かけ、その費用は全て益夫が出していたようだが、それほど関根は益夫とはズブズブの関係にあった。債権者が銀座に出向いた店で益夫と関根が出会うことも何回かあったようだが、益夫と関根はいつも債権者の席にやって来た。そして頭を垂れながら「必ず返済します」と言って挨拶していたが、吉郎の債権者への非常識な対応を誘発したのは関根であったから、関根も弁護士にあるまじき悪質な人間であったことが分かる。

益夫が病院の出資証券名義を吉郎に変更するや事実上の乗っ取りを断行
しかし、吉郎は何を勘違いしたのか、益夫が3つの金融機関から不正融資を引き出し、株投機ほかに注ぎ込んだ事件で東京地検や警視庁の捜査対象になり、結局は逮捕起訴されるに至ると、何一つ責任を取ろうとせず、それどころか病院グループをアイワグループから切り離す工作に奔走したのである。仮にそれが益夫の同意があってのことだとしても、病院グループ創設の当初から益夫の資金に全てを頼り、経営方針の指示まで受け、お飾りにしろ各病院施設の理事長に就いてきた吉郎が率先してやるべきことではない。まして、病院グループの買収・維持資金を出した債権者に対して取るべき態度ではなかった。
しかも、益夫の服役中には田中氏はアイワグループのゴルフ場経営会社に追いやられていたが、益夫が出所した後に田中氏が「病院グループに戻りたい」と言うと、益夫が拒否した。恐らくは病院グループの経営が軌道に乗りつつあったことに加え、益夫自身も吉郎から煙たがられていたために、その実情を田中氏に知られたくはなかったのかも知れない。それで、田中氏は退職することになったが、病院グループの基盤を盤石に築いた田中氏に対して益夫はわずか100万円の退職金しか出さず、さらに吉郎も益夫が田中氏にプレゼントしていたロレックスの時計を取り上げてしまった。益夫も吉郎も、功労者である田中氏に感謝する気持ちがカケラも無く、追い出したも同然だった。
益夫はアイチや富国開発など、名うての金融業者から頻繁に借り入れをし、また益夫が一番に懇意にしていた暴力団からも株投機ほかで資金調達をすると同時に毎月のようにみかじめ料を支払っている関係にあったが、益夫が服役中には暴力団関係者の取立に対応していたのは他ならぬ吉郎自身だった。それほど益夫の下で益夫の代行を務めていた吉郎が何の責任も果たさないというのは明らかにおかしい。
すでに病院の幹部も承知していたが、吉郎は毎月6000万円の機密費(裏金)を益夫に届けていた。もちろんこれは各病院の経理や財務を操作して作った裏金だから、各病院は毎月のように粉飾を強いられたことになる。明らかに吉郎には社会人としての節度やコンプライアンス感覚が全くないと言っても過言ではない。
また、3つの金融機関を巡る不正融資が表面化する中で、検察や警察、国税等に押収されては困る多くの書類を益夫が密かに隠しこもうとしたが、段ボール箱で13箱以上にもなる書類群が全て債権者の下に持ち込まれる事態が起きた。それに驚いた益夫が最も昵懇にしていた暴力団の「芳菱会」に取り戻しを依頼し、同組織の幹部が何度も債権者に脅しをかける事態が起きた。「書類を返さなければ、タマ取るぞ、殺すぞ」という言葉さえ何度も口に出して、執拗に電話を架けて来た幹部に、債権者は怯むことは無かったが、その後、同組織のトップが直接債権者の会社を一人で訪ねてくるようになった。応対したのは会社の管理職だったが、トップは自身が持病で余命があまりないことまで告げ、自分が生きている間は益夫に対しては静観して置いて欲しいと依頼した。トップは益夫が債権者には返済を滞らせていたことに腹を立てつつ、吉郎は益夫以上に悪質であると強調した。こうした経緯を踏まえて、債権者はしばらく様子を見ることにしたようだが、益夫はもちろん吉郎もまた、それをいいことにして債権者を蔑ろにし続けたのである。

益夫の病死と同時に相続放棄の手続き
吉郎の悪質さを象徴しているのが、益夫の死後、吉郎だけでなく安郎と益代の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取ったことであった。

(写真:吉郎の自宅マンション。家賃は月額200万円以上と超高額だ)

確かに益夫のような波乱の生き方をしてきた人間の遺産を継げば、それこそ危険な状況に陥る可能性もあるかもしれないが、それよりも吉郎の念頭にあったのは、間違いなく債権者から逃れる手段だった。しかし、これほど非常識で無責任なことはない。吉郎がすべきことは最低でも債権者に会って父親の非礼を詫びることであり、さらに言えば、益夫が長年にわたって滞らせ続けた債務の返済処理について具体的な話を進めることにあったはずだ。ところが吉郎にはそんな考えは一切なかった。

(写真:吉郎の弟安郎の自宅マンション)

吉郎と益代(故人)、そして安郎は今、都心の一等地にそびえる超高級マンションに暮らし、吉郎の長男佑人もまた家族とは別に同様の暮らしをしているが、その生活を支えているのが、債権者から騙し取った資金を使って病院グループを軌道に乗せた結果でもたらされたものであるという認識が全くないことには呆れ返るばかりだ。しかも吉郎は妻の実家が要職を占める常仁会傘下の白美会には他の医療法人よりも手厚い資金提供や医師、看護師等の人材を優先的に派遣するという独善的な差配をして、内部から顰蹙を買っているというし、また一部には、益夫の死後も機密費を作り続け、それで私腹を肥やしているという指摘もあるほどだが、もちろんこのまま吉郎の悪事が闇に埋もれることは決してないし、埋もれさせてはならないのである。(以下次号)

2023.05.28
     

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