益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(1)

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種子田益夫が息子の吉郎や安郎から面会を拒否され、自分が作り上げた病院にも「来てはいけない」と宣言されて、必死な思いで病院の出資証券を吉郎から取り戻そうともがく中、吉郎の妻から見舞いの手紙をもらったことで書いた返事である。この手紙が実際に投函されたかは不明だが、そこには吉郎の非道さをさりげなくではあるが詰る表現が何カ所もある。吉郎が、病院は自分がM&Aをしてグループを構築した、と周囲に吹聴していることに抗議もしている。以下、抜粋ではあるが、文面を取り挙げる。

《おはようございます。幸さんより手紙をもらい、また、私の好物のお菓子まで送ってくださって、誠にありがとうございます。まさか幸さんから手紙でもくださるということは夢にも思ってなく、手紙をもらったと、すぐ、明子に報告いたしました。

(写真:種子田益夫)

まあ、いろいろと、幸さん、あったと思います。いろいろと、いいことも悪いこともあったと思います。しかし、幸さんも努力して、3人の孫を立派な大学に入れてくださったことに対して、本当に心から感謝しております。一生懸命だったと思います。死に物狂いだったと思います。
それと別に、これだけは、幸さん、分かってください。私は学もないし、頭も悪い。それで明子と結婚しました。明子と結婚して、時間がたつにつれて、明子が、「お父さんの仕事はパチンコだ、養豚場だ、不動産だということを書くのは、学校で書くのは嫌だから」、せめて子どもなんかが社会人になったり、学校のことなんかであるときには、気が引けることではなく、職業は何でもいいと思うんだけども、女としていろいろそばにおられるから、本人も、何といいますか、ちゃんとした職業の婦人であるということが言いたかったんでしょう。それで私に「お父さん、子どもだけは、私たちが学校で嫌な思いをして書くのは嫌だ」と、「子どもなんかは世間で立派に認められるような職業にしてください」と何回も何回も頼まれました。それは「お父さん、私は、これだけだから、何か、お父さん、考えてください」ということから、「社会で認められるということは、まあ、弁護士か病院経営か、そのようなもんだな」と、「しかし、弁護士には到底なれないだろうから、病院を俺が作るわ」と、また「病院も買うわ」と言って、本当に死に物狂いで、慣れない仕事に、朝4時、5時に起きて病院に行き、掃除をし、庭を作ったり、あらゆることをし、向こうとも話をして、平均的にやれるように土台を作り、しかし、私の仕事とちゃんぽんしてはいけないので、ゴルフ場のほうには関係なく、病院は独立で、病院ということにしました。》

吉郎や安郎、そして益代が「父親の仕事を知られるの嫌だ」と母親に抗議をしていることを聞き、益夫が病院の経営に乗り出したという動機が語られている。早朝から仕事をこなして病院経営を軌道に乗せて行ったというが、それは吉郎自身の実績では全くないことを吉郎の妻にも力説しているのだ。これを読む限り、吉郎が妻には本当の話をしていない可能性もある。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

《しかし毎月、毎月、毎月、それは当然です。病院はあるけども、患者が入ってないんだから、社員はいっぱいおるんだから、その毎月の支払いが莫大な金額でした。しかしそれを払い続けて、やって、吉郎が大学を終わるころには、そこそこの患者が入るようになっていましたから、もう一息だなということでおりました。
ところが私のいろいろな問題が、私らだけじゃなく、バブルの関係で、いっぺんに何もかも出てしまったのです。しかし、何が何でも子どもには病院を残すということで明子と約束して、「お父さん、それができれば、私はお父さんには何も言わないよ」と言ってくれていましたので、しかし、病院は出来上がったけども、私が後から銀行事件、脱税事件、いろいろなりましたから、それで普通は絶対あり得ないことです、バクチ業種は全部調査が入るんです。しかし私は検察庁も警察も国税も頼んで、「ほかの件は、一切、全て私は理屈を言わずに、私がかぶるから、病院だけには手を入れないでくれ」と、「病院だけには、家宅捜索、そういうものは入れなくちゃいけないだろうけど、入れないでくれ」ということをお願いし、検察庁も税務署のほうも「分かりました」ということで、守ってくれました。また、病院をやっていくについては、出資金は全額私のものだから、これが変なことになるといけないからということで、それもちゃんと特捜部で預かるようにして、税務署と一緒に預かるようにして、封印して預かってくれました。
まあ、その後、帰って来て、それは自分で一生懸命やった病院だから、幸さん、分かってください。帰って来てから、牛久もほかの病院も、誰にも分からんように、どういうふうになったんかなと思って見に行きました。しかしそれが吉郎君とヤスロウ君(安郎)の逆鱗に触れて、「なぜ病院を見に行った? なぜ病院に行った? なぜ病院の中を歩いた? 絶対許さない」という手紙が来ました。私は病院は社会的なもんだから、立派にしとるかなと思って、掃除もきれいしてあるかな。経営はうまくいってるかなって見に行って来たつもりですけども、それも分からないように、さっと行って来たんですけども、散々叱られました。まあ、それは一生懸命やってるから、いいことだと思います。》

吉郎は、益夫が出所後に病院に顔を出すと、相当な剣幕で「出入り禁止」の通告をしただけでなく、「今後、病院に現れたら、すぐに警察沙汰にする」とまで警告した。益夫が刑事事件で逮捕されることを予測して、保有する病院の出資証券の名義を吉郎に替えたのを、吉郎はチャンスと見て乗っ取り工作を進めた。そして、益夫が出所後に資金繰りで出資証券を吉郎に担保として預けると、以後、益夫が「返せ」と言っても知らぬ存ぜぬを繰り返し、名実ともに病院グループを自分の物にしたとして、周囲にも吹聴し始めたのだ。益夫は生まれ故郷では「鼻つまみ者」と嫌われ放題だったが、吉郎の冷酷さ、独りよがりの強欲さは益夫以上ではないか。

《しかし、彼らが総合病院をやったことは事実だから、あまりなくそうとしないで、堂々と「うちの親父も学がないもんですから、いろいろ捕まって、税務署やら銀行やら、捕まったけども、何も人のものを泥棒したわけじゃないんだから、人を殺したわけじゃないんだから、まあ、1人しかいない親だから仕方がないと思って諦めております」と、「しかし病院は私たちが一生懸命やっていきますから、皆さん、協力してください」と言えばいいんだけども、幸さんも分かっとると思うけども、新潟から金が出たとか、彼ら、「それは、これは一切関係ない」とか、それでいいんです。一切関係がない。他人にはそれでいいんです。それを関係のない人に必要以上に言うから、皆が、分かっていますから、「何だ?」というようなことになるんだから。
まあしかし、幸さんのほうの3人の子どもも最高の学校に入れてくれて、私も何とか、曲がりなりにも、病院の理事長に、理事長常務に、吉郎君、ミツオ君のしたことについて、何とか少しは認めてもらいたいと思っております。
しかし、久しぶりの手紙、久しぶりの贈り物だったので、私も舞い上がって、うれしくて、うれしくて、うれしくて、明子にも報告をし、これでもう長いことないと私は思ってます、長いことない人生ですけども、幸さん、これで明子に、「幸さんが見舞いをくれたよ、手紙をくれたよ」と言えます。マスヨ(益代)はたまに連絡をしてくれますので、ありがたく思っております。どうか、つまらん、本当にどうにもならん、つまらん親でしたけども、許すという気持ちになって、大目に見てください。
今、私も週に3回透析に行って、朝4時に起きて、麻酔をして、7時から始まって12時に終わるんです。火、木、土、週3回、もう7年間行ってます。もう疲れました。しかし、何といいますか、いろいろ、彩夏ともユウト(佑人)とも、懲役おる時に手紙で約束をしてましたけども、それも何も実現できませんでしたけども、いつもいつも幸さんの立場、お宅たち、孫のことは陰ながら見て祈っておりますので、どうか。》(以下次号)

2023.06.30
     

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