西義輝の命を縮めた鈴木義彦との出会い(4)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「私はこのような鈴木からの要請が何度も続いたことに対して疑いを持ち、2001年11月に鈴木が借りたホテルオークラのエグゼクティブフロアーの部屋にて鈴木との間で一つの英文による契約を結んだ。それは『この契約日から5年以内に、総利益の内の経費を引いた3分の1を、契約に基づいて西義輝に支払う。但し、年に一度は利益の推移を必ず確認を行いあうこと。契約期間は2006年11月末日までとする』という旨の内容だった」
この書面はA氏と西、鈴木が交わした「合意書」とは違いA氏の名前が無い。その理由として鈴木は「以前にA社長には14億円の利益の分配をしているので、これ以上を支払う必要性は無い。但し、借り入れている18億円(注:実際は元金約28億円)に関しては、解決の方法を考えているから」と西に言ったという。「常々、鈴木は私に対して『周りの人間たちには鈴木は国内にはいないと言って欲しい。名前を表に出さないで欲しい。エフアール社を絡めた部分で300億円の個人保証をしているので、表に出るわけにはいかない。また、ユーロ債の新株発行に関しては私が表に出て行えば利益を稼ぐことが難しくなるので』と、さまざまな機会で何度も言っていた。私は、その時鈴木が周囲の人たちから逃げようとしているということを察知した」
英文の契約書を作成ことになったのは、鈴木の身勝手な言動、さらにそれまでの2年間で受けた鈴木の行動に対する不審感からだったというが、それ以上に「志村化工株の大量買付けにより、東京地検特捜部から私(西)に捜査の手が伸び、証券取引法違反による逮捕が固まりつつあったことが大きな要因となった」
「鈴木も志村化工株売買によるインサイダー容疑での逮捕が確実で、もし逮捕されることがあれば、今までのあらゆることが表に出てしまい、お金の流れも暴かれてしまうことになり、努力が無になってしまう」と西は考えた。また鈴木には親和銀行不正融資事件により5年間の執行猶予がついていたため、「次の逮捕により全ての刑が鈴木に覆いかぶさってくる。この英文契約を結ぶ条件として、私は鈴木を逮捕から守ることがあり、私は鈴木にそのことを約束した」という。
平成14年2月27日、西は証券取引法違反の容疑で東京地検特捜部に逮捕された。「拘置所にいるときの検事の取調べは本当に過酷なものだった。私と検事の間でさまざまな駆け引きが行われていく中、私はその後保釈に至るまで、鈴木のことは一言も話さず、最後まで鈴木を守った。結局、鈴木のこの件での逮捕はなかった。その後の同年3月末、すべての取調べを終えて私は保釈された」 西は、逮捕されたことはあくまで自分の責任で判断し実行した結果での失敗としながらも、「鈴木のその後の行動や態度に関しては、今思えば余りにも非人間的な考え方であったと思う」と記した。

「志村化工株の株価操作事件の逮捕劇からおよそ1か月、私の保釈後、鈴木は今までと変わらぬ対応で私に接し、保釈金の立替、毎月の生活費用(100~150万円)、弁護士費用を払い、裁判の結審が行われるまで、非常に密に意見交換を繰り返していた」
仮に公判中ではあっても、西の言動によっては鈴木の逮捕が有り得たからで、鈴木の秘密を知っている西に対して、鈴木は大事に扱っていたに違いない。
2003年(平成15年)の夏、西の刑が確定し、懲役2年、執行猶予3年の判決が下った。すると、同年の9月、鈴木から西に電話が入り「一度ゆっくり話がしたい」というので、西と鈴木は西麻布の喫茶店で会ったが、「その時、彼は私のことを『西さん』と呼ぶようになっていた。今まで私のことを『西会長』としか呼ばなかった鈴木が、裁判が終わった直後に態度を変えたことに対して私は非常に驚いたが、それ以上に驚いたことは、『西さんへの毎月の生活費の支払いをそろそろ止めたい』と言われたことだった。私は、その時鈴木にたった一つの事だけを言った。『執行猶予が切れた暁には、二人で交わした契約を実行していただきたい』。私はその時約300億円以上の利益が積み上がっていることを伝えられており、『自分には多額の借入金があり、それの清算をしなければいけない。もちろん、A社長にも返済しなければいけない金額が沢山ある』というと、驚くことに鈴木が私に言った言葉は『Aは俺には関係ないだろう。西さんが取り分をどうしようと勝手だけど、俺は14億円の分配と10億円の借入金を返済しているので、もう全てが済んでいる。俺と一緒にはもうしないでくれ』ということだった」
西はその場を終えたが、その直後から鈴木の携帯電話がつながらなくなり、紀井経由でなければ連絡が取れなくなったという。ただし、西が必要に応じて紀井に電話をすると鈴木からは必ず連絡があったので、少しは安心をしていたという。

西のレポートの最後には「香港を舞台にした金銭授受、そして……」の見出しが記されているが、レポートを忠実に再現する。
「私は鈴木と2005年(平成17年)10月に東陽町にあるホテルイースト21のスカイラウンジにて、1時間半かけて色々な打ち合わせを行った」
便宜的に二人の会話の主要な部分が描かれているので、それを挙げると、
西(談)  来年(2006年)の8月にて執行猶予が切れて、パスポートを手に入れることができるので、徐々にお金の準備をしていただきたい。
鈴木(談) 今は200億円程度の利益しかない……。
西(談)  さまざまな理由を述べずに、400億円以上の利益に対しての3分の1の分配として決定しよう。
鈴木(談) 株券の在庫が多く、西さんが言っている金額は全ての株券を売却しなければ難しい。
西(談)  本来、当初の取り決めは社長、私、鈴木さんで均等にて分配(注:西とは別にTAH社に手数料10%)するという約束であったはずですよ。
鈴木(談) 社長と結んだ合意書及び借用書は、2002年末に破棄したと言ったじゃないですか。
西(談)  この話は、貴方と私の間で結んだ契約書に基づいてのことですよ。
「これらのやり取りを私なりに総合して考えると、おそらく鈴木は自分の思っていた以上の多額の利益を得たために、配分を減らすことを考え、また、私を丸め込むことが出来ると考えたと思う。また、私に対しては小額の現金を与えればよいということを考えていたとも思う。何故ならば、『西さん、お金に困っているのであれば、1億くらいのお金を融通することは出来ますよ。どうしようもないときは言ってください』ということも会話の中にあったからだ。また社長の名前が会話に出てきたときには、『社長は関係ないだろ。貴方が取りまとめてくれるっていつか、言っていたじゃないですか? 帳尻合わせは全て済んでいるはずだから』という言い方さえしていた」
「私はその時、過去を振り返った。一銭の金もないころの鈴木は、社長から金銭面で全面協力をいただいた。(合意書を交わしての株取引では)企画、発案、取りまとめに関しては私の役割で、鈴木は株式の売却の役割を担っていたが、実際の売却に関しては紀井が9割以上を担当しており、また、お金の管理に関しては茂庭の力を借りた。また、色々なユーロ債と口座の開設等に関しては、元フュージョン社の町田、川端を使い、いつも役割ごとにうまく人を活用していた」
西は、鈴木との金のやり取りの方法に関する連絡を密に取っていたが、最終的には平成18年10月の初めに、香港で約46億円の受け渡しを行うという話があり、鈴木は「マネーロンダリング法が脅威となっているため、香港での取引は全て現金で行わず、日本から海外に持ち出されている銀行振出の保証小切手にて行いましょう。そして残りに関しては、海外のオフショア口座を2社ほど開設し、その後3ヶ月以内に約90億円のお金の振替を必ず実行します」と言った。そして、9月30日の鈴木との会話で西は10月2日に香港へ向かうと述べ、インターコンチネンタルホテル香港に宿泊するとも伝えた。すると、鈴木が『西さんが以前の打ち合わせの際に、私の紹介で面会したことのあるTamという人間と香港で会い、打ち合わせを行ってください。私も時間があれば、香港に行きますから』ということを西に伝えた。

西が香港に着くと、鈴木から連絡が入り、「10月3日の14時にTamが香港での専用携帯電話を渡します。私はどうしてもやらなければいけない仕事が入り香港には行けません。西さんもTamとは会ったことがあるので、今回はTamとの取引でお願いします」ということだった。その後、Tamから携帯電話を受け取り、同日の16時に香港島のリッポセンターの2Fロビーで待ち合わせをし、一部保証小切手の確認をすることになった。
しかし、Tamが用意していた小切手は約17億円分(23枚)で、『残りの29億円分は市場で今集めており、10月4日の午後には全額が揃うので、責任を持って渡す』と言うので西も了解した。
そして、翌4日の午後8時にリパレスベイのレストランで待ち合わせをすることになったが、実際にはTamの方が遅れ気味となり、西が近くの公園を散歩しながら待っていると、午後8時半過ぎにようやくTamが現れ、車の中で46億7000万円分の小切手を確認し、オフショア会社設立のための書類へのサインをしたほか英文契約書の金額の一部変更へのサインも行った。
西はビジネスファイルバッグに書類と保証小切手を入れ、最初に待ち合わせをしたレストランに向かおうとすると、Tamからワインを勧められ、それを飲んだ直後に意識を失った。
それから約16時間後、西はリパレスベイの浜辺で発見されたが、所持品は無く、契約書類、小切手、携帯電話もなくなっていた。
「着用していたスーツは破れ、靴は砂まみれの状態、とても再使用できる状態ではなかった」
体調の回復を待ち、3日間の入院の後、西は病院を退院した。日本領事館での説明、そして領事館から紹介された弁護士へ対応を依頼して西は帰国の途についたが、ここでもまた、西は香港警察や領事館からの聞き取りに鈴木の名前を出すことは一度も無かった。

以上が、西が記録した鈴木との出会いから平成18年までの経緯のレポートである。西が鈴木に唆されて総額10億円を受け取り、合意書破棄の要請を受け入れた時から、西もまた鈴木に同調してA氏を裏切り続けた、とはいえ、鈴木が株取引の利益を独り占めにする中で以下に横着な対応を西に繰り返していたかが分かる。出会って間もなくの親和銀行対策の当初から、鈴木は西を利用するだけ利用し、親和銀行が事件で表面化して逮捕起訴された後の株取引でも、性懲りもなく悪事を繰り返したのである。(つづく)

2023.07.18
     

SNSでもご購読できます。

    お問い合わせ