「病院グループは自分が創業した」と大ボラを吹く吉郎(2)

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病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は、益夫が昭和61年に買収し、吉郎が同病院の理事長に就いたのは平成11年のことである。益夫は病院を買収するたびに吉郎を理事長職に就かせたが、それは益夫が反社会的勢力と密接な関係にある事が周知の事実であったことと、いくつもの前科前歴があって、厚生省や地元自治体が許可しなかったから、益夫も止むを得ずダミーを立てるしかなく、吉郎の成長を待って順次理事長に就かせ、益夫自身はオーナーとして病院グループに君臨した。牛久愛和総合病院も同様だった。そして平成11年当時、3つの金融機関の不正融資事件が表面化したことで、金融機関からの本格的な債権回収を受けることを見越して、益夫はアイワグループと病院グループを切り離す工作を進めた。吉郎は益夫に言われるまま理事長としての役割を演じていたに過ぎない。
田中氏によれば、東京本部を開設したものの、傘下のどの病院も収支のバランスが合わず、不足資金は「全て種子田益夫氏から資金援助を受けておりました」と陳述している。そこには何の知識も経験もない吉郎の出る幕など全く無かったのが実情だった。
とはいえ、益夫はさらに経営不振に陥った病院を買収し続け、既存の病院と共に維持を図っていく資金の調達を迫られた。債権者から融資を受け始めた平成5年から同6年にかけて、益夫は返済もろくにしないままさらに融資を受け続けたのである。債権者の手元にある公正証書は4通あって、6000万円と1億2000万円、15億円の3通が平成6年8月16日付、1通は25億円で同年10月13日に作成されている。これら合計41億8000万円(元金)のほぼ全てが病院施設の買収資金になり維持費に消えたのだ。債権者への返済がない中で新たな融資を依頼する種子田に債権者が「これ以上は無理だ」と言うと、益夫はあろう事か債権者が知る森重毅ほか数人の名前が書かれたメモを差し出し、それぞれに連絡をして融資をお願いして欲しいという。益夫の依頼は執拗で、債権者が連絡を取るまで帰ろうともしなかった。債権者は、益夫が金を調達するまでは梃子でも動きそうにない様子に呆れ果てた。そうした中で益夫が「病院を担保に入れます。病院は備品のコップ一つまで全部私のものですから」と言い、さらに「病院の理事長は息子の吉郎にさせていますが、吉郎は『父からの預かり物なので、必要に応じていつでもお返しします』と言っているので、何の問題もありません」と言うのを債権者たちは何度も聞いて、融資に応じてきた経緯があった。債権者たちによる益夫への融資はその後も続いていたが、益夫は借りる一方で返済を滞らせ続けた。
平成8年頃になると、武蔵野信用金庫と国民銀行を巡る不正融資事件が表面化したことで益夫の周辺が慌ただしくなり、ただでさえ債権者たちから逃げ隠れしていた益夫がさらに連絡を疎かにして債権者たちから足を遠ざけていた。そして東京商銀信用組合でも不正融資事件が表面化すると、益夫は検察の取り調べを理由に電話で直接応対することも無かったようだ。
この間、益夫の秘書的な存在だった梶岡K氏や田中氏が、経理担当者の北條紀美子が作成した債権債務の計算書を携えて債権者の会社を訪ねてきて、債権者に担保で預けた手形や小切手等の切り替えが行われていた。
前述したように益夫は病院を担保にすると言っていたが、債権者たちがいくら手続きを進めようとしても曖昧な態度を取り続け、「病院を監督している厚生省(現厚労省)や地元自治体の監視が厳しく、なかなかクリアーできないので、しばらく時間を下さい」と言い訳をし、それに代わるものとしてアイワグループの事業であるゴルフ場の会員権を大量に持ち込んだり、イタリアのゴルフ場の売却代金や会員権の販売代金を返済に充てるという念書を差し入れていたが、会員権はすでに益夫が定員を上回る数を乱売していたために、評価はほとんどなかった。そのため、債権者が病院を担保にする手続きをするよう求めても、「少し時間を下さい。必ず約束は守りますから」と言う益夫の言葉を田中氏も梶岡氏も何回も聞いていた。

平成15年5月、益夫がようやく債権者の会社を訪ねて来た。その際に益夫は経理担当者が作成した計算書に捺印することで債務承認をしたが、その時点での債務額は元利合計で約368億円に上っていた。しかし、益夫は臆することも無く「牛久の病院は、今、500億円以上の評価があります。だから500億円まで貸してください。病院を売却して必ず返済します」と言ったのである。しかし、益夫は債権者たちに約束した病院を担保に供する手続きをすることなく、平成16年に有罪判決が下され服役してしまった。
本来であれば、病院施設の買収・維持に関わる資金を債権者から調達する際に、吉郎自身も連帯保証人として名を連ねるとともに、病院を担保提供する手続きを吉郎自身が進めるのが当然だったはずだ。「息子は、父親からの預かり物で、いつでもお返しする、と言っているので、しばらく待って下さい」と益夫は債権者に何回も言っていた。
これは、益夫が服役中にあったことだが、債権者が吉郎に会いたいと要請したのに対し、益夫の顧問弁護士を務めていた関根栄郷が「絶対に会ってはいけない」と言って厳しく止めていたようだが、それでも田中氏が一度吉郎を説得して、債権者に電話をかけさせたことがあった。しかし、その時、吉郎は債権者に「社長さんの周りは金持ちばかりなので、そちらで何とかして下さい」と言うや、一方的に電話を切ってしまい、折り返しで債権者がいくら電話をかけても吉郎は一切応答しなかった。それが、父親の指示で理事長に就いたダミー的な存在でしかなかったにしても、吉郎の取るべき態度ではないことは、誰の目にも明らかだった。
関根栄郷弁護士は、益夫が依頼していた15人ほどの弁護士が益夫のやり方に愛想をつかして辞めていく中で一人残った悪徳弁護士として有名だった。毎晩のように銀座に出かけ、その費用は全て益夫が出していたようだが、それほど関根は益夫とはズブズブの関係にあった。債権者が銀座に出向いた店で益夫と関根が出会うことも何回かあったようだが、益夫と関根はいつも債権者の席にやって来た。そして頭を垂れながら「必ず返済します」と言って挨拶していたが、吉郎の債権者への非常識な対応を誘発したのは関根であったから、関根も弁護士にあるまじき悪質な人間であったことが分かる。

しかし、吉郎は何を勘違いしたのか、益夫が3つの金融機関から不正融資を引き出し、株投機ほかに注ぎ込んだ事件で東京地検や警視庁の捜査対象になり、結局は逮捕起訴されるに至ると、何一つ責任を取ろうとせず、それどころか病院グループをアイワグループから切り離す工作に奔走したのである。仮にそれが益夫の同意があってのことだとしても、病院グループ創設の当初から益夫の資金に全てを頼り、経営方針の指示まで受け、お飾りにしろ各病院施設の理事長に就いてきた吉郎が率先してやるべきことではない。まして、病院グループの買収・維持資金を出した債権者に対して取るべき態度ではなかった。
しかも、益夫の服役中には田中氏はアイワグループのゴルフ場経営会社に追いやられていたが、益夫が出所した後に田中氏が「病院グループに戻りたい」と言うと、益夫が拒否した。恐らくは病院グループの経営が軌道に乗りつつあったことに加え、益夫自身も吉郎から煙たがられていたために、その実情を田中氏に知られたくはなかったのかも知れない。それで、田中氏は退職することになったが、病院グループの基盤を盤石に築いた田中氏に対して益夫はわずか100万円の退職金しか出さず、さらに吉郎も益夫が田中氏にプレゼントしていたロレックスの時計を取り上げてしまった。益夫も吉郎も、功労者である田中氏に感謝する気持ちがカケラも無く、追い出したも同然だった。(以下次号)

2023.07.21
     

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