益夫が吉郎に宛てた手紙で「病院を潰す」とまで言及した真意

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9年前の平成26年3月に益夫が吉郎に宛てて書いた手紙を、一部だが公開する。益夫の収監が解けてから約5年を経過した当時、益夫は吉郎から事実上絶縁状態に置かれた。その心中を手紙という形で語りかけているが、吉郎が益夫を騙して病院グループを事実上乗っ取ったことに憤り、吉郎の対応次第では「病院を潰す」「告訴も辞さない」とまで言い切っている。

《吉郎へ  血を分けた親子の間で、このようなことをしかも、文書でやり取りすることになることを想像していなかったが、会うこともできない状態であれば、これも止む無し。
心優しいお兄ちゃんとして、益代や安郎に慕われていた、そして母にも頼もしく思われてた、吉郎が、どうしてこうなったのか、じっくり考えてみた。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

ことは、3人の子供たちが、仲良く安定した生活ができるようにと、病院経営に着手したことが、全ての始まりだったと思う。
1 宮崎の病院設立 2 高知の病院取得 3 八幡病院の経営権取得
4 小倉の病院の引き受け  5 牛久の病院の取得
いずれも、譲受け時及びその後の運転資金の補充と施設の改修・増築、また新築及び医療器具の充実…これらに相当の資金を注入したが、今まで、この時期の壮絶な資金の確保に要した苦労は、3人の子供には決して話したことはなかった。
3人に綺麗な形で施設を渡して、仲良く経営していくことが、親である私の務めであるとして、時として、会社の資金を一方的に流用したり、会社利益を強引に病院に注ぎ込んで来た。その結果の一つが、所得税法違反として、刑事責任を問われることとなったのだが…。
病院施設の規模の当初目的であった1000床のベッドが確保され、とりあえず、当初の設備投資が一段落し、吉郎を後継者として、どのように教育すべきか迷ったが、医療関係者から、「医療関係業界に3年程度入って、病院の運営の実態(医師の役割、事務長の権限、職員の採用・罷免、医療材料の仕入れ、薬剤の採用過程)等、いろんな分野で生の情報に接することが可能である、と同時に、病院経営のノウハウが確実に得られることは間違いない」と助言を受けたことがあったが、私はこれを完全に無視してしまった。というより、その意味を理解できなかった。結果として、全職員に君臨するという、そのことに快感を覚える、そのような風に吉郎をしてしまったことを今となって後悔している。

(写真:種子田益夫)

売防法および所得税法違反が確定して、刑に服したとたん、病院の存在している(各病院の所在地にある)県医師会が一斉に、特別医療監査を県に対して要請したことがあった。
その最大の理由は、刑法に触れる事案を有する医師ではない人物が医療法人の理事長であることが、容認できないということであった。ましてや売防法及び所得税法違反容疑者が、医師会としてはとても許せないことだったようであった。特別医療監査の実施がどのような意味を持っているか、それが医療施設にとってどれだけ恐ろしいことであるかは、各病院を取得していくごとに耳にしていたので、理事長辞任を承諾することを各病院事務長に伝え、ようやく事なきを得た経緯がある。
このことを吉郎は知らないだろうが、吉郎を理事長にし、私が病院から一切退くことにしたのも、この事情による。
しかし、このことは、私が3人の子供に病院経営を引き継がせたいという思いからは反することではなく、吉郎の経験不足、勉強不足について一抹の不安はあったものの、周囲がサポートしてくれることを信じて、理事長の席を譲ったのであった。》
益夫は県医師会が申入れした特別医療監査をかわすために自ら理事長職を退いた、というが、「医師ではない人物が医療法人の理事長職にある」ことは医師会にとって決して好ましいことではないというなら、吉郎も当然問題になる筈だ。そこで、益夫は自民党厚労族の重鎮に手を回し、吉郎の理事長就任の根回しを図ったとみられている。

《吉郎が、病院理事長として全面的に社会に出てみて、理事長の父である、病院の創業者が刑事罰を受けているということは、ひた隠しにしたい気持ちは十分理解できる。そうであったら、そのように言ってくれれば、父としては、何もためらうことなく、承諾できたはずである。しかし、吉郎の真意はそうではなく、本気で病院は自分だけの力でつくったものであり、私は一切タッチするなと言っていると解釈せざるを得ない。安郎や益代にも会うことを禁じ、孫との接触を禁じられ、ましてや、孫の一人からは、爺さんを殺すとまで言われている。
どうしてこのような事態になったのだろう。
吉郎は、すべて原因は親父のしたことに起因していると言っている、と解釈せざるを得ない。
私は、現在腎機能障害により人工透析を週に3回治療を受けているが、私が立ち上げた病院での治療が受けられないという事実、この無念さは子供たちはどう思っているのだろうか。
子供たち3人が仲良く運営してくれることを最大の希望として、苦労して築いた病院であったが、吉郎の言動から、真っ向から否定されるのであれば、もはや病院を存在させておく理由は、完全になくなったということになる。
群馬医大や東京女子医大からの常勤医師の派遣運動は筆舌に尽くしがたい苦労であった。現在、どの病院もこれら大学医局のバックアップなしには病院の存続は有り得ないのは紛れもない事実である。
今後は、医局の医師派遣に応え得る病院の態勢の充実(ハード面でもソフト面でも)を期することであると、密かに安どしていたことであったが、私の思惑とは全く反して、病院を私物化しようとしているとしか思えない吉郎の言動を見聞きするに及び、
何のために病院を設立したのか
設立・拡充してきた努力は何だったのか
を考えざるを得なくなっている。
吉郎に聞きたい。
1 心底、病院は自分の努力のみで設立したものであり、父の支援は一切受け
た事実はない。
2 今後も病院経営に関しては、絶対に触れて欲しくないし、触れさせない。
3 益代や安郎であっても、病院の運営方針に支障がきたすことが予測されたり、存在が耳であると判断した場合には、彼らを排除することも有り得る。
4 宮崎の胆牛荘は、病院の資金で競落取得したものであり、父から取得資金を事前に受領していた事実はない。従って完全に病院資産であり、父使用貸借を認めているものである。
ということであるのか?
心底、吉郎がそのように思っているのであれば、父として取るべき手段を講じる必要がある。心して返答しなさい。
2014/3/7 種子田益夫》

益夫は、自分が病院に行けば、正面玄関に院長ほか幹部スタッフを勢揃いさせて送迎させ、あるいは病院にある備品のグラス一つまで「自分の物だ」と言って憚らなかった。それほど病院に執着していた益夫が、息子の吉郎に病院を乗っ取られるとは予想もしていなかったに違いない。手紙では吉郎の仕打ちを何とか許容するような意思を見せているが、「病院を潰す」とまで断言するところに益夫の深い憤りが読み取れる。ただし、益夫が病院の維持や買収の為に注ぎ込んだ資金を真面に返さず、それで病院は種子田一族の物だと言っても、それは決して通らない話だ。まして、吉郎は父親から理事長職を預けられた人間に過ぎない。「濡れ手で粟」のように病院施設を牛耳る事など許されるものではなく、先ずは債権者に債務を返還することを優先すべきではないか。(つづく)

2023.07.03
     

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