特集 種子田益夫・吉郎

種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(1)

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「私がM&Aで病院グループを構築した」と言う種子田吉郎の大うそ
種子田益夫が病死したのは今から4年ほど前の令和元年10月13日のことだった。それが大きな理由になったのか、「常仁会病院グループ」(晴緑会、明愛会、白美会の各医療法人を傘下に全国に7医療施設)の理事長の座にある長男の吉郎が、病院グループをさも吉郎自身が創設から築き上げて来たかのような発言を大っぴらに繰り返しているようだ。そうした事実など一切ないにもかかわらず、何故そんな大きな口が叩けるのか。病院グループの創設に関わった関係者の多くが死亡し、あるいは益夫が率いていたアイワグループから去って行った中で、「私が支配者だ」と広言しても誰からも吉郎に対して抗議はおろか文句の一つも出るはずがない、とでも思っているのだろうか。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

インターネット上で経営者を紹介する「注目社長情報館」というサイトがあり、そこで吉郎がインタビューに答えているが、その一部を以下に抜粋する。
〖私(吉郎)の性分では、サラリーマンには向いていないということを自分でも理解してました。そんなことを考えていた時に出会いがあり、倒産寸前の病院の話しを頂きました。「どうせサラリーマンは出来ないしやってみるか!」と引き受けたのが病院経営の始まりでした。その病院を立て直したら、色々なM&Aの話が舞い込む様になり、気が付いたら経営する施設が増えていたと言う状況です〗
これを読むと、吉郎は常仁会病院グループを自力で立ち上げ、現在の姿に築き上げたという印象を周囲に与えるが、全くの嘘だ。吉郎がこのインタビューの中で、父益夫の死を「一昨年」と語っているので、令和3年に収録され掲載されたものだろうが、もし、益夫や何人かの幹部が生きていれば、絶対に言えない嘘を吉郎は語っている。
倒産寸前の病院の話をしたのは誰か? その病院はどこにあり、どのように立て直したというのか? 吉郎には答えられるはずがない。何故ならば、吉郎は日本大学を卒業後、わずか1か月ほどアメリカの医療施設等を視察する旅行に参加した後、何の資格も経験もないまま、益夫が全資金を調達して買収した病院施設を統括する東京本部の常務に就き、それが吉郎のスタートとなったからだ。お膳立てをしたのは父の益夫であり、その側近の一人だった田中延和氏であった。その田中氏が書いた陳述書には以下のように書かれている。

(写真:益夫の側近だった田中延和氏の陳述書 吉郎が知識も経験もないまま知益夫が買収を進めた病院グループの役員に就いて行った経緯を語っている)

〖種子田益夫氏は私に病院経営を一緒にしないかと誘われ、その折、長男の種子田吉郎氏が大学を卒業したので、これを機会に1か月間アメリカの医療状況を見てくるように言われ、二人でツアーに参加しました。これが吉郎氏との出会いであり、病院経営の始まりでした。そして、大阪、高知、九州(2か所)、計4カ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り、私が専務取締役本部長になり、吉郎氏が常務というポストに就きました。基本的な方針は、種子田益夫氏から私共に指示があり、これに基づいて具体的な方針を実行していきました…〗
これを見ても分かる通り、吉郎は右も左も分からないまま、ただ田中氏に付いて周囲をうろちょろしていたに過ぎなかったのである。もし、吉郎がインタビューにあるように、持ちかけられた病院の立て直しから事業に目覚め、そして病院を立て直したら色々なM&Aが舞い込んできたという話が事実ならば、その経緯を明確に示してみるがいい。M&A対象の病院はどこか、その資金はどうやって調達したのか、立て直しのノウハウは何だったのか等を全て明らかにできるのか。病院グループの収支が赤字で益夫から厳しく叱責され、吉郎が泣きべそをかいていた姿をアイワグループの社員が何人も見ていたのだ。そんな吉郎に病院を立て直すどれほどの力量があったのか、吉郎自ら明らかにすべきではないか。

刑事事件の渦中で父益夫病院死守のために吉郎を牛久愛和病院の理事長に
病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は、益夫が昭和61年に買収し、吉郎が同病院の理事長に就いたのは平成11年のことである。益夫は病院を買収するたびに吉郎を理事長職に就かせたが、それは益夫が反社会的勢力と密接な関係にある事が周知の事実であったことと、いくつもの前科前歴があって、厚生省や地元自治体が許可しなかったから、益夫も止むを得ずダミーを立てるしかなく、吉郎の成長を待って順次理事長に就かせ、益夫自身はオーナーとして病院グループに君臨した。牛久愛和総合病院も同様だった。そして平成11年当時、3つの金融機関の不正融資事件が表面化したことで、金融機関からの本格的な債権回収を受けることを見越して、益夫はアイワグループと病院グループを切り離す工作を進めた。吉郎は益夫に言われるまま理事長としての役割を演じていたに過ぎない。
田中氏によれば、東京本部を開設したものの、傘下のどの病院も収支のバランスが合わず、不足資金は「全て種子田益夫氏から資金援助を受けておりました」と陳述している。そこには何の知識も経験もない吉郎の出る幕など全く無かったのが実情だった。

(写真:平成6年に作成された公正証書。6000万円、1億2000万円、15億円、25億円の4通が作成された)

とはいえ、益夫はさらに経営不振に陥った病院を買収し続け、既存の病院と共に維持を図っていく資金の調達を迫られた。債権者から融資を受け始めた平成5年から同6年にかけて、益夫は返済もろくにしないままさらに融資を受け続けたのである。債権者の手元にある公正証書は4通あって、6000万円と1億2000万円、15億円の3通が平成6年8月16日付、1通は25億円で同年10月13日に作成されている。これら合計41億8000万円(元金)のほぼ全てが病院施設の買収資金になり維持費に消えたのだ。債権者への返済がない中で新たな融資を依頼する種子田に債権者が「これ以上は無理だ」と言うと、益夫はあろう事か債権者が知る森重毅ほか数人の名前が書かれたメモを差し出し、それぞれに連絡をして融資をお願いして欲しいという。益夫の依頼は執拗で、債権者が連絡を取るまで帰ろうともしなかった。債権者は、益夫が金を調達するまでは梃子でも動きそうにない様子に呆れ果てた。そうした中で益夫が「病院を担保に入れます。病院は備品のコップ一つまで全部私のものですから」と言い、さらに「病院の理事長は息子の吉郎にさせていますが、吉郎は『父からの預かり物なので、必要に応じていつでもお返しします』と言っているので、何の問題もありません」と言うのを債権者たちは何度も聞いて、融資に応じてきた経緯があった。債権者たちによる益夫への融資はその後も続いていたが、益夫は借りる一方で返済を滞らせ続けた。
平成8年頃になると、武蔵野信用金庫と国民銀行を巡る不正融資事件が表面化したことで益夫の周辺が慌ただしくなり、ただでさえ債権者たちから逃げ隠れしていた益夫がさらに連絡を疎かにして債権者たちから足を遠ざけていた。そして東京商銀信用組合でも不正融資事件が表面化すると、益夫は検察の取り調べを理由に電話で直接応対することも無かったようだ。

(写真:債権債務の計算書 平成15年当時、益夫が返済を滞らせ続けたために債務総額は368億円余に膨らんでいた)

この間、益夫の秘書的な存在だった梶岡氏や田中氏が、経理担当者の北條紀美子氏が作成した債権債務の計算書を携えて債権者の会社を訪ねてきて、債権者に担保で預けた手形や小切手等の切り替えが行われていた。
前述したように益夫は病院を担保にすると言っていたが、債権者たちがいくら手続きを進めようとしても曖昧な態度を取り続け、「病院を監督している厚生省(現厚労省)や地元自治体の監視が厳しく、なかなかクリアーできないので、しばらく時間を下さい」と言い訳をし、それに代わるものとしてアイワグループの事業であるゴルフ場の会員権を大量に持ち込んだり、イタリアのゴルフ場の売却代金や会員権の販売代金を返済に充てるという念書を差し入れていたが、会員権はすでに益夫が定員を上回る数を乱売していたために、評価はほとんどなかった。そのため、債権者が病院を担保にする手続きをするよう求めても、「少し時間を下さい。必ず約束は守りますから」と言う益夫の言葉を田中氏も梶岡氏も何回も聞いていた。(以下次号)

種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(2)

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「牛久の病院は時価500億です」と言いさらなる融資を依頼
平成15年5月、益夫がようやく債権者の会社を訪ねて来た。その際に益夫は経理担当者が作成した計算書に捺印することで債務承認をしたが、その時点での債務額は元利合計で約368億円に上っていた。しかし、益夫は臆することも無く「牛久の病院は、今、500億円以上の評価があります。だから500億円まで貸してください。病院を売却して必ず返済します」と言ったのである。しかし、益夫は債権者たちに約束した病院を担保に供する手続きをすることなく、平成16年に有罪判決が下され服役してしまった。

(写真:種子田益夫)

本来であれば、病院施設の買収・維持に関わる資金を債権者から調達する際に、吉郎自身も連帯保証人として名を連ねるとともに、病院を担保提供する手続きを吉郎自身が進めるのが当然だったはずだ。「息子は、父親からの預かり物で、いつでもお返しする、と言っているので、しばらく待って下さい」と益夫は債権者に何回も言っていた。
これは、益夫が服役中にあったことだが、債権者が吉郎に会いたいと要請したのに対し、益夫の顧問弁護士を務めていた関根栄郷が「絶対に会わせてはいけない」と言って厳しく止めていたようだが、それでも田中氏が一度吉郎を説得して、債権者に電話をかけさせたことがあった。しかし、その時、吉郎は債権者に「社長さんの周りは金持ちばかりなので、そちらで何とかして下さい」と言うや、一方的に電話を切ってしまい、折り返しで債権者がいくら電話をかけても吉郎は一切応答しなかった。それが、父親の指示で理事長に就いたダミー的な存在でしかなかったにしても、吉郎の取るべき態度ではないことは、誰の目にも明らかだった。
関根栄郷弁護士は、益夫が依頼していた15人ほどの弁護士が益夫のやり方に愛想をつかして辞めていく中で一人残った悪徳弁護士として有名だった。毎晩のように銀座に出かけ、その費用は全て益夫が出していたようだが、それほど関根は益夫とはズブズブの関係にあった。債権者が銀座に出向いた店で益夫と関根が出会うことも何回かあったようだが、益夫と関根はいつも債権者の席にやって来た。そして頭を垂れながら「必ず返済します」と言って挨拶していたが、吉郎の債権者への非常識な対応を誘発したのは関根であったから、関根も弁護士にあるまじき悪質な人間であったことが分かる。

益夫が病院の出資証券名義を吉郎に変更するや事実上の乗っ取りを断行
しかし、吉郎は何を勘違いしたのか、益夫が3つの金融機関から不正融資を引き出し、株投機ほかに注ぎ込んだ事件で東京地検や警視庁の捜査対象になり、結局は逮捕起訴されるに至ると、何一つ責任を取ろうとせず、それどころか病院グループをアイワグループから切り離す工作に奔走したのである。仮にそれが益夫の同意があってのことだとしても、病院グループ創設の当初から益夫の資金に全てを頼り、経営方針の指示まで受け、お飾りにしろ各病院施設の理事長に就いてきた吉郎が率先してやるべきことではない。まして、病院グループの買収・維持資金を出した債権者に対して取るべき態度ではなかった。
しかも、益夫の服役中には田中氏はアイワグループのゴルフ場経営会社に追いやられていたが、益夫が出所した後に田中氏が「病院グループに戻りたい」と言うと、益夫が拒否した。恐らくは病院グループの経営が軌道に乗りつつあったことに加え、益夫自身も吉郎から煙たがられていたために、その実情を田中氏に知られたくはなかったのかも知れない。それで、田中氏は退職することになったが、病院グループの基盤を盤石に築いた田中氏に対して益夫はわずか100万円の退職金しか出さず、さらに吉郎も益夫が田中氏にプレゼントしていたロレックスの時計を取り上げてしまった。益夫も吉郎も、功労者である田中氏に感謝する気持ちがカケラも無く、追い出したも同然だった。
益夫はアイチや富国開発など、名うての金融業者から頻繁に借り入れをし、また益夫が一番に懇意にしていた暴力団からも株投機ほかで資金調達をすると同時に毎月のようにみかじめ料を支払っている関係にあったが、益夫が服役中には暴力団関係者の取立に対応していたのは他ならぬ吉郎自身だった。それほど益夫の下で益夫の代行を務めていた吉郎が何の責任も果たさないというのは明らかにおかしい。
すでに病院の幹部も承知していたが、吉郎は毎月6000万円の機密費(裏金)を益夫に届けていた。もちろんこれは各病院の経理や財務を操作して作った裏金だから、各病院は毎月のように粉飾を強いられたことになる。明らかに吉郎には社会人としての節度やコンプライアンス感覚が全くないと言っても過言ではない。
また、3つの金融機関を巡る不正融資が表面化する中で、検察や警察、国税等に押収されては困る多くの書類を益夫が密かに隠しこもうとしたが、段ボール箱で13箱以上にもなる書類群が全て債権者の下に持ち込まれる事態が起きた。それに驚いた益夫が最も昵懇にしていた暴力団の「芳菱会」に取り戻しを依頼し、同組織の幹部が何度も債権者に脅しをかける事態が起きた。「書類を返さなければ、タマ取るぞ、殺すぞ」という言葉さえ何度も口に出して、執拗に電話を架けて来た幹部に、債権者は怯むことは無かったが、その後、同組織のトップが直接債権者の会社を一人で訪ねてくるようになった。応対したのは会社の管理職だったが、トップは自身が持病で余命があまりないことまで告げ、自分が生きている間は益夫に対しては静観して置いて欲しいと依頼した。トップは益夫が債権者には返済を滞らせていたことに腹を立てつつ、吉郎は益夫以上に悪質であると強調した。こうした経緯を踏まえて、債権者はしばらく様子を見ることにしたようだが、益夫はもちろん吉郎もまた、それをいいことにして債権者を蔑ろにし続けたのである。

益夫の病死と同時に相続放棄の手続き
吉郎の悪質さを象徴しているのが、益夫の死後、吉郎だけでなく安郎と益代の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取ったことであった。

(写真:吉郎の自宅マンション。家賃は月額200万円以上と超高額だ)

確かに益夫のような波乱の生き方をしてきた人間の遺産を継げば、それこそ危険な状況に陥る可能性もあるかもしれないが、それよりも吉郎の念頭にあったのは、間違いなく債権者から逃れる手段だった。しかし、これほど非常識で無責任なことはない。吉郎がすべきことは最低でも債権者に会って父親の非礼を詫びることであり、さらに言えば、益夫が長年にわたって滞らせ続けた債務の返済処理について具体的な話を進めることにあったはずだ。ところが吉郎にはそんな考えは一切なかった。

(写真:吉郎の弟安郎の自宅マンション)

吉郎と益代(故人)、そして安郎は今、都心の一等地にそびえる超高級マンションに暮らし、吉郎の長男佑人もまた家族とは別に同様の暮らしをしているが、その生活を支えているのが、債権者から騙し取った資金を使って病院グループを軌道に乗せた結果でもたらされたものであるという認識が全くないことには呆れ返るばかりだ。しかも吉郎は妻の実家が要職を占める常仁会傘下の白美会には他の医療法人よりも手厚い資金提供や医師、看護師等の人材を優先的に派遣するという独善的な差配をして、内部から顰蹙を買っているというし、また一部には、益夫の死後も機密費を作り続け、それで私腹を肥やしているという指摘もあるほどだが、もちろんこのまま吉郎の悪事が闇に埋もれることは決してないし、埋もれさせてはならないのである。(以下次号)

種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(3)

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警視庁や東京地検特捜部が種子田の会社だけでなく自宅ほか関係個所を家宅捜索する前に、種子田益夫が見られては困る多くの重要書類を密かに隠したことは前号でも触れたが、それらはダンボール箱にすると10箱以上にもなる大量の書類だった。書類が作成された日時を見ると、やはり国民銀行の破綻と東京商銀信用組合事件が表面化し破綻に向かった時期と一致するものが少なくない。種子田が容疑に関係すると思われる書類をいち早く隠し、罪を逃れようとしてダンボール箱に詰め込んだことが第一の理由だったことが窺える。

(写真:種子田益夫)

実はこの段ボール箱に詰め込まれた大量の書類が債権者のもとに運び込まれた直後、それを知った益夫が慌て、日常的にボディガードを依頼していた暴力団の組長に頼んで取り返そうとしたことから、組の幹部だけでなく周辺関係者達がひっきりなしに接触を図ってきた経緯があった。その時には、暴力団の幹部組員が強力な脅しをかけてきたり、逆に高額な金額での買取を提示する等様々な動きを見せたが、債権者ほか関係者たちは一切応じなかった。そうした経緯があっただけに、これらの資料群が益夫にとっては第三者の手に渡ったり公表されれば致命的となる非常に重要な機密性を帯びていた事が分かる。債権者と債権者たちは、益夫が取り返そうとして暴力団にまで頼んだ事実を踏まえ、しばらくは静観することにして、段ボール箱をそっくり手元に確保していることさえ口外しなかった。

種子田にとって見られては困る重要書類は、多岐にわたっていた。すでに触れた金融機関、中でも東京商銀信用組合の系列2社との取引に関わるもの、種子田の秘書とみられる社員の日報、アイライフや富国開発等の名うての金融業者とのやり取りや株の仕手戦でも名を馳せた高橋治則(EIE代表)の名が登場する書類もある。
そうした中で目を引いたのが、吉郎の病院グループと種子田益夫、アイワ企業グループと病院グループが密接なつながりを持っていることが裏付けられる書類が数多く見つかっていることだ。種子田が債権者を始めとする債権者たちから多額の資金を借り受けて病院施設を買収し、また運営維持に当たってきた事実は何人もの関係者が証言しているのだから当然だが、益夫が「いつでも病院を担保に供する」と何回も断言したり、「病院の理事長は息子にしているが、息子も病院は父からの預かり物なので、いざとなったら必要に応じていつでもお返しすると言っている」などと言って借入を繰り返したにもかかわらず、その約束を反故にしたばかりか、吉郎もまた「父親と病院は関係ない」という開き直った言い訳を繰り返して債権者との接触を拒み続けた。しかし、益夫は吉郎に指示して毎月6000万円もの裏金を出させていた事実が判明しているが、資料の中にもアイワグループ企業が病院グループから借受金の名目で資金を頻繁に調達していることを示すものが見受けられる。

病院グループの中核になる牛久愛和総合病院は昭和61年に、また高知愛和病院や小倉愛和病院などは、それぞれ平成5年と同9年頃にかけて愛和メディカルというアイワグループ企業が買収した(小倉愛和病院は土地建物合わせて約3億円)うえ、これも、益夫への“上納金”の一種とみられるが、愛和メディカルが賃貸人となって各病院に施設を賃貸するというやり方をしていたり、高知愛和病院の施設を拡充する際にも、吉郎がその決済を益夫に仰ぐだけでなく、承認を受けた後の資金調達でも益夫が金融業者のアイライフ(旧アイチ)から受ける融資額を膨らませつつ担保として高知愛和病院に根抵当権を設定するなどの処理がなされているのだ。しかも、この手続きは当然ながら吉郎自身が行っていた。

(写真:藤牧秀信の陳述書。吉郎が各病院から機密費を作り、総額6000万円を毎月益夫に届けていた事実を語っている)

吉郎がいくら「父益夫と病院は関係ない」と言ったところで、各病院を買収して病院グループを形成していったのは種子田益夫自身であり、吉郎はただ益夫の指示に従って動いただけで、決済に関わることは何もしていないことが、これらの資料からも証明される。病院グループは茨城銀行ほかいくつもの金融機関から億円単位の借入を行っており、各病院施設の土地建物には抵当権や根抵当権が設定されているが、アイライフからの借入経緯を踏まえれば、益夫がアイワグループ全体の資金繰りで病院施設を担保に供しており、病院グループもアイワグループの一員であって、理事長としての職責を果たしていたのは吉郎ではなく益夫であったことが窺われる。吉郎が毎月6000万円の機密費(一病院当たり約1000万円)を作り、益夫に届けていたことは病院関係者周知の事実であった。

愛和メディカルが病院施設から毎月の家賃約270万円を徴収していた関係から、アイワグループに融資をしていた金融機関(国民銀行、わかしお銀行ほか)が家賃を差し押さえ、あるいは病院施設の土地建物に抵当権や根抵当権を設定する等の事態が相次いで起きていた。これらの処理も全て吉郎ではなくアイワグループの幹部社員たちが益夫の指示を受けて行っていたが、国民銀行が破綻を免れるために種子田益夫(アイワグループ)からの債権回収に必死になっていたことがよく分かる。
日報には多くの金融機関が毎日のようにアイワグループ企業に連絡を入れ、返済の督促をしている記述が見られるが、種子田益夫自身は幹部社員たちに指示を出しているだけで、幹部社員たちが返済を繰り延べさせる対応に追われている様子も窺える。
これまでにも触れて来たとおり、種子田益夫は反社会的勢力の密接な共生者としての経歴や売春防止法違反や脱税等の多くの逮捕歴がある人物だっただけに、表の金融機関がおいそれと融資に応じる訳ではなかったから、一般企業の財務状況とは明らかに異なり、名うての金融業者からの借入が常態化していた実態が日々の資金繰りを記載するファイルからも明らかだった。そうした状況の中での金融機関の経営危機(破綻)がアイワグループの経営に追い打ちをかける状況になったとみられる。

吉郎は益夫が住む所を転々としていた頃に岐阜で生まれたが、幼少の頃からそういう父親を見て育ってきたからか、病院グループの理事長に就いて後にいくつかのインタビューに応じた時にも、特に父益夫との思い出については「ほとんど覚えていません」と言って話をはぐらかしてきた。それは今も変わらないが、父親が反社の人間で犯罪歴がたくさんあるということを言える訳がない。しかし、その一方で吉郎は益夫の人格を十分に受け継ぎ、というより場合によっては益夫よりもより悪質な人格を形成しているのではないかとさえ思われる。

(写真:吉郎の自宅マンション。家賃は月額200万円以上と超高額だ)

それが、理事長として7施設の病院を擁する病院グループのトップに君臨している吉郎の今の姿に見事に表れているのではないかと思われるのだ。本来であれば、益夫が金融機関を3つも破綻させた結果、国民の血税が巨額に注ぎ込まれたにもかかわらず、一切知らぬ振りをして逃げ回り、債務不履行を繰り返していた益夫に代わって病院グループが総力を挙げて返済に努力するのが理事長でもある吉郎の責任であり当然のことなのに、吉郎以下益代と安郎の弟妹たちは一切知らぬ振りを決め込み、揚げ句には益夫の死後に揃って相続放棄をするという暴挙をやってのけたのだ。益夫は東京渋谷区内に住民登録をしていたが、実際には宮崎市内の別邸にいる事が多く、対外的には自身の所在を不明にしていたが、吉郎もまた公表していた住所地には住んでおらず、実際には家賃が200万円を超える外国人ビジネスマン向けの超高額のマンションに住むという姑息なことを長らく続けて来た。場合によっては債権者からの差し押さえを危惧して自宅を所有していないという発想かもしれないが、そこまでするのも父親譲りとすれば、あまりにも度の過ぎる悪知恵と言わざるを得ない。
益夫と吉郎による債務不履行は、金融機関だけではなく、債権者を始めとする債権者たちに対しても同じであった。

ダンボール箱から取り出せば山のようになる資料の中には、実体として益夫が病院グループの債権者であり、全ての差配を振るって権限を行使して来た事実が数多く残されている。
一つの例を挙げれば、高知愛和病院を巡る平成9年当時の報道記事がある。同病院は地元では老人病院として有名なほど患者は高齢者ばかりだったが、衰弱患者が1年で20人も出る、つまり健全な治療をせず、患者を衰弱死させてしまうような方針を取っていたことが大きく報道されたのだ。
これに対し、本来ならば理事長たる吉郎が陣頭指揮を執って事態の収拾に当たるにもかかわらず、実際に動いたのは益夫と関根弁護士だった。益夫は目先の対応として、一旦病院を第三者に売却(約7億4000万円)する体裁を作り、その後にほとぼりが冷める時期を見計らって再び病院グループに組み込むという乱暴な手段を講じたのである。そこには公共性の高い病院としての使命感は微塵もなく、ただ患者を一切無視して実利だけを追い求める姿勢しかない。
今、吉郎が率いる病院グループには多くの介護老人施設があるが、その経営姿勢に問題は無いのか。吉郎もまた、学習院大学の大学院でホスピス(終末医療)の研究を専攻し修士課程を終えたという学歴を有しているが、果たしてその成果が実際の介護施設で生かされているのかは大いに疑問としなければいけない。(つづく)

種子田益夫を絶縁して病院を乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(4)

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牛久愛和病院の出資証券を父益夫から騙し取った吉郎

(写真:種子田益夫)

5年ほど前の2017年3月、種子田益夫が次男の安郎に宛てた手紙がある。益夫が資金繰りのために長男の吉郎に牛久愛和病院の出資証券を預け、2億円を調達したが、その後、吉郎が出資証券の返還を拒んだことから父子の対立が深まった。そうした渦中で吉郎が益夫からの連絡に一切対応しないため、安郎宛に手紙を送ったとみられる。以下、一部だが益夫の安郎宛の手紙を紹介する。

『安郎くん、夕べは遅くまで電話かけて申し訳ない。実は、○○弁護士から安郎くんの名前で、常仁会の株を預かったこともない、見たこともないという内容証明が来ましたので、それをそういって物事が通るわけありません。確かに宮崎の裁判のために2億円要るときに、新潟の山で借りるようにしましたが、新潟の山だけでは金が出ないということで、もしこの出資金(出資証券 以下同)、私が持っているものを全て持ってきてくれということで、すぐ取りに行って、直してあったのを渡して、帝国ホテルまで持っていきました。安郎くんも吉郎くんも2人おりました。そこで渡して、送金2億円をやってもらうようにして帰りました。預かり証と言ったんだけども、後でやりますということだったから信頼して帰りました。今金を返すから、返したときには出資金を返してください、土地を返してくださいと言ったら、吉郎くんは、出資金はシュレッター掛けたと言われました。そんなことをお父さんに言えるはずがないと思ったけども、仕方がない、自分の子どもが言うことだから、何とでも言っているんだろうと。出資券(出資証券)は5億円、現金を持っていって買い取ったものであります。みんな知っています』

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

この流れを読んだだけでも、吉郎が牛久愛和病院の出資証券を父益夫に返さず、乗っ取りを画策した経緯が分かる。吉郎による病院グループの乗っ取りは、益夫が東京商銀事件で有罪判決を受け服役することになった平成17年前後から着実に進行していった。出資証券は益夫が病院の大株主(オーナー)である証だった。それを、吉郎は2億円の裁判費用を益夫に調達する代わりに預かると称して騙し取ったのだ。何とも卑劣なやり方だ。親子だから事件にはならなかったようだが、以降、益夫の呼びかけに吉郎が一切応じなくなった経緯を見ても、吉郎の冷酷さが窺い知れる。

「病因の資金繰りに85億円を注ぎ込んだ」と益夫が強調
『ただ怖いのは、お父さんが悪いと言えばそれでもいいでしょう。どんな謝りもします。しかし、お父さんの弱みにつけこんで、これでもか、これでもかといじめるようなことをすると、お父さんもばかじゃないので、兵庫県の病院作るために銀行の金で別に85億円を、4つの株式を買う金、資金繰りのための部外の借金を払うのに85億をつぎ込みました。それは全部帳簿を見れば分かります。裁判所に言って帳簿閲覧を、帳簿を出してもらうように手続きを取ろうと思っております。
何もないお父さんは、お父さんとお母さんは、一生懸命働いて3人の子どもに幸せになってもらうために、どんなに苦しくても出資金は1万円も外部には出しませんでした。それは命懸け、体を張って残した出資金を、シュレッターを掛けたとか、預かった覚えはないとか見たことがないとか、それでは通らないと思う。確かに病院は私が全部作って私がやっていたんだけども、事情によって私が現場を離れなくちゃならなんなったから、その間には弁護士に任そうということで決まったけれども、しかし、種子田家で吉郎くんを信用しなけりゃ誰を信用するんだという私の気持ちがそのようになったので、預けていきました。預けていって帰ってきてから、おやじ、病院はこうこうだから、われわれでやるから資金を全部頂けるんでしょうかというぐらいのことを言うかと思うとったら、つらく私を当たって、本当に歩けないぐらい全てをやっておりました。しかしみんな裏から教えてもらいました。レイムケッテイの役員の方も私に会いに来ました。社長には一番先に会いたかったけども、息子さんのほうで、お父さんに会うといけないようなことだからとか、社員もものを言いたくても、ものを言ったらまた吉郎くんから目を付けられるということでびくびくしておるから、私のほうから遠慮して何ともものを言っていません。言う気持ちもありません。しかしあまりにも、お父さんを踏みにじったときには病院もなくなるときです。必ずなくなるときです。なぜこの前も会うと言って、ホテルまで取っていたのに、風邪だというから仕方がない、風邪なら仕方がないと思っていました。もう風邪が治って弁護士のところに行ったり、あっちに行ったりこっちに行ったりしとるんだから、晩にすぐに連絡を取って、会わなければ会わない、そう言ってくれなければお父さんは毎日約束を破るのは大嫌いだし、時間を破るのは大嫌いだから、毎日、いつ来るのかということで気を掛けています』(以下次号)

種子田益夫を絶縁して病院を乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(5)

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「病院にも事務所にも来るな 孫と話をするな」と吉郎が吐き捨てるように言った
『なんか吉郎くんに、お父さんが罪になったこと、そういうことで迷惑掛けたことは確かにあります。しかし、小さい、生まれたときから何一つ困らさず、何一つ不自由させず、お母さんと一生懸命やってきたつもりです。それがあの子には分からないんです。残念でたまりません。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

おやじ、きょうは焼き鳥でも食べようか。おやじ、たまには事務所にも寄れよと。たまには病院に……と言うんじゃなくて、病院に来るんじゃない、事務所に来るんじゃない、自分の子どもとも話をするんじゃないと、そういうことが通るでしょうか。そのようなことが通るでしょうか。そのようなことをして、親にそのようなことをすれば、そばで見とる人間は軽蔑します。なんだと。

いくら吉郎くんが、病院は俺が作ったんだと言っても、それは自分で一生懸命やったでしょう。しかし土台を作ったのは、お父さんが土台を作ったから、その運営がやれるし、その運営が大きく出ているんだから。ささいな病院でもおやじが作ったんだなと、大きくしなくちゃいかんだなと、おやじ、お茶でも飲もうかと言わなきゃいけないんだなと。吉郎くんが作る、やるときと、私がやるときは天と地の差があります。苦しい中でやりました。患者が入らないのを入れるために一生懸命でした。患者が満杯に詰まったから私が刑務所に行ったんです。それまでは延ばして延ばして行けなかったんです。それも分からず、お父さんを恨み、お父さんをばかにし、お父さんを見下げて、せっかく心配してくれるバンジュンさんたちがおられるのに、私の関係者も安郎くんからの内容証明を見て、2人とももう許すことできないなというところまで来ました。絶対にこれは許せることじゃないというところまで来ました。しかし、待ってくださいと電話かけて、本人に聞かなきゃ本人の意志が分からないからということで、夜遅くまでおられたのです。帰った後にあなたからの電話が分かったので。

(写真:種子田益夫)

安郎くん、お父さんは人殺しをしたわけじゃない。人の物を盗んだわけじゃない。事情があって刑務所に行ったんだから、その苦しみはあんたたち子どもがきれいな気持ちで接してくれなければ、お父さんはいつもつらい思いをしていなくちゃなりません。少し言ったら、生活費も止まり、生活費を削って、いつもお母さんに、吉郎がやってくれたよと。安郎くんの分はお母さんは生きとるときから知っていました。安郎くんは優しい子だから、お父さん心配ないよと。吉郎くんは怖いと。あの人は怖い人だからと言っていましたけど、全然分からなかったけど、今になって分かります。自分の家庭が第一、あとはどうでもいい。お父さんも銀行、および銀行にも話しに行くつもりでおりましたが、お父さんが行けば終わりになります。絶対には終わりになります。そのぐらいの自信はあります。宮崎の市長が私の開発を邪魔したから、お父さんは3カ月かかって保健所長に、市長に出てもらうように、昨日出るということを宣言してもらいました。これで宮崎市長も変わるでしょう。それも私の開発を邪魔したから、私に付いとる人たちがみんな一生懸命やってくれています。
吉郎くんも男だから、お父さんが悪いところを、お父さんを許すことができなければ、お父さん土下座突いてでも頭下げます。謝ります。しかし分からなくて、罪のことは分かるけれども、それ以外に生活でも何でも苦しめた覚えはないし。安郎くんも、吉郎くんが曲がったことで動くときには止めなくちゃいけないんだよ。止めなければ吉郎くんは刑務所行きになります。間違いなくなります。病院の経営も、出資金は私が全部持っとるから勝手に全部やっていいという法律はない。うちの弁護士も全部調べています。できることなら、お父さんもあと少ししか生きません。少ししか生きられないのを、ひがみ合って生活するよりも、生活費もやりたくなければやらなくていい。自分で働いて食べなくちゃいけないことぐらい分かっています。安郎くんのお金で助かっています。本当に安郎くんありがとう。そして私が死ぬときには、安郎くんが送ってくれた金は全部返すようにしておきます。それだけは安心しとってください。
吉郎くんも目を覚ましてもらいたい。近いうちに会って、言いたいことがあれば聞きます。怒りもしません。お父さんが悪ければ聞きます。金をやりたくなければ仕方がないです。兵糧攻めといって一番人間のやり方の汚いやり方。兵糧攻めというんです。3月31日間で宮崎のカンリユソウもやらないと言っていますけども、今見てもらえば分かります。写真も付けておきます。私の小さい土地を売った金を全部、もう20年たって、雨が降ったらカンリユソウも庭が水浸しになるので、配管から石から管から全部変えて、松の枝も切って素晴らしいものにしてあります。お父さんが死んでいってもきれいなもんでなるように、全部終わりました。あと1年生きるか2年生きるか知らないけれども、もう歩くこともままならない、飛行機に乗ることも大変な作業です。しかし、働かなけりゃ食えないので、頑張って何とか食っていきます』

「この手紙を吉郎に見せなさい」と言う益夫の声も吉郎は聞こうとしない
『安郎くん、絶対曲がったことに加担してはいけない。うそに加担してはいけない。そのしっぺ返しのひどいものが返って、あなたたちも1回でも警察にお世話になると、もうこれで病院の役員もやっていけませんよ。お父さんの二の舞だけはしないでください。出資金も帝国ホテルに、あそこで持って来いと言われるから、悔しかったけれども、アリノミだから言われるまましなくちゃいかんから持っていった。今度はそれをシュレッター掛けたとか、もらった、取った覚えはないとか、出資金はないとか。国税局が預かっておって、国税局からもらって、国税局の印鑑が付いてあるじゃないですか。そんなものを自分が勝手に苦し紛れに言ってはいけない。これが自分の子だから黙っておりますけども、他人さまだったら絶対許しません。弁護士だって許しません。このことは、テープですから手紙に訳して送りますから、吉郎くんにも見せてやってください。お父さんをばかにしてもいいけども、ぼけとるわけじゃないから。そういう預かったものを預かってない、そういう人間にはならないようにと、この手紙を見せてやってください。
安郎くん、いつもお世話になります。頑張るんですよ。頑張って、そういう真っすぐなことで頑張ってください。弁護士のところへ行って金を取られて、うそ八百書いて、お父さんに手紙出しても通りません。お父さんは全部裏付けを持っています。証拠を持っています。証拠のないことは言いません。私の知り合いの人も、安郎くんだけは話が分かるように言ってあるんだけどなと、分かってくれてないのかなと非常に残念がってました。お父さんの電話だけは、お母さんがいなくなってからお父さんも寂しいので、何も用事はないけども、どうしとるんかなと思ったときに電話かけたときには、なにも会うわけじゃない、電話ぐらいは出てください。それが人間の道です。人間の道を外さないでいてください。おやじ、なんか用事か、いや用事ないよと。声を聞きたいだけですよと。そのぐらいはやっても罰は当たらないと思う。学校出てからすんなりとお父さんの土台を作ったところで働けて、その土台を作った人をばかにし、いじめ、それで吉郎は楽しんどるんです。しかし一遍は私と、あれだけの手紙を私にやったんだから一遍は番重さん立ち会いで会っておかなきゃいけないので、今月の15日ぐらいまでに会うようにするように言ってください。申し訳ないです』(以下次号)

益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(1)

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種子田益夫が息子の吉郎や安郎から面会を拒否され、自分が作り上げた病院にも「来てはいけない」と宣言されて、必死な思いで病院の出資証券を吉郎から取り戻そうともがく中、吉郎の妻から見舞いの手紙をもらったことで書いた返事である。この手紙が実際に投函されたかは不明だが、そこには吉郎の非道さをさりげなくではあるが詰る表現が何カ所もある。吉郎が、病院は自分がM&Aをしてグループを構築した、と周囲に吹聴していることに抗議もしている。以下、抜粋ではあるが、文面を取り挙げる。

《おはようございます。幸さんより手紙をもらい、また、私の好物のお菓子まで送ってくださって、誠にありがとうございます。まさか幸さんから手紙でもくださるということは夢にも思ってなく、手紙をもらったと、すぐ、明子に報告いたしました。

(写真:種子田益夫)

まあ、いろいろと、幸さん、あったと思います。いろいろと、いいことも悪いこともあったと思います。しかし、幸さんも努力して、3人の孫を立派な大学に入れてくださったことに対して、本当に心から感謝しております。一生懸命だったと思います。死に物狂いだったと思います。
それと別に、これだけは、幸さん、分かってください。私は学もないし、頭も悪い。それで明子と結婚しました。明子と結婚して、時間がたつにつれて、明子が、「お父さんの仕事はパチンコだ、養豚場だ、不動産だということを書くのは、学校で書くのは嫌だから」、せめて子どもなんかが社会人になったり、学校のことなんかであるときには、気が引けることではなく、職業は何でもいいと思うんだけども、女としていろいろそばにおられるから、本人も、何といいますか、ちゃんとした職業の婦人であるということが言いたかったんでしょう。それで私に「お父さん、子どもだけは、私たちが学校で嫌な思いをして書くのは嫌だ」と、「子どもなんかは世間で立派に認められるような職業にしてください」と何回も何回も頼まれました。それは「お父さん、私は、これだけだから、何か、お父さん、考えてください」ということから、「社会で認められるということは、まあ、弁護士か病院経営か、そのようなもんだな」と、「しかし、弁護士には到底なれないだろうから、病院を俺が作るわ」と、また「病院も買うわ」と言って、本当に死に物狂いで、慣れない仕事に、朝4時、5時に起きて病院に行き、掃除をし、庭を作ったり、あらゆることをし、向こうとも話をして、平均的にやれるように土台を作り、しかし、私の仕事とちゃんぽんしてはいけないので、ゴルフ場のほうには関係なく、病院は独立で、病院ということにしました。》

吉郎や安郎、そして益代が「父親の仕事を知られるの嫌だ」と母親に抗議をしていることを聞き、益夫が病院の経営に乗り出したという動機が語られている。早朝から仕事をこなして病院経営を軌道に乗せて行ったというが、それは吉郎自身の実績では全くないことを吉郎の妻にも力説しているのだ。これを読む限り、吉郎が妻には本当の話をしていない可能性もある。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

《しかし毎月、毎月、毎月、それは当然です。病院はあるけども、患者が入ってないんだから、社員はいっぱいおるんだから、その毎月の支払いが莫大な金額でした。しかしそれを払い続けて、やって、吉郎が大学を終わるころには、そこそこの患者が入るようになっていましたから、もう一息だなということでおりました。
ところが私のいろいろな問題が、私らだけじゃなく、バブルの関係で、いっぺんに何もかも出てしまったのです。しかし、何が何でも子どもには病院を残すということで明子と約束して、「お父さん、それができれば、私はお父さんには何も言わないよ」と言ってくれていましたので、しかし、病院は出来上がったけども、私が後から銀行事件、脱税事件、いろいろなりましたから、それで普通は絶対あり得ないことです、バクチ業種は全部調査が入るんです。しかし私は検察庁も警察も国税も頼んで、「ほかの件は、一切、全て私は理屈を言わずに、私がかぶるから、病院だけには手を入れないでくれ」と、「病院だけには、家宅捜索、そういうものは入れなくちゃいけないだろうけど、入れないでくれ」ということをお願いし、検察庁も税務署のほうも「分かりました」ということで、守ってくれました。また、病院をやっていくについては、出資金は全額私のものだから、これが変なことになるといけないからということで、それもちゃんと特捜部で預かるようにして、税務署と一緒に預かるようにして、封印して預かってくれました。
まあ、その後、帰って来て、それは自分で一生懸命やった病院だから、幸さん、分かってください。帰って来てから、牛久もほかの病院も、誰にも分からんように、どういうふうになったんかなと思って見に行きました。しかしそれが吉郎君とヤスロウ君(安郎)の逆鱗に触れて、「なぜ病院を見に行った? なぜ病院に行った? なぜ病院の中を歩いた? 絶対許さない」という手紙が来ました。私は病院は社会的なもんだから、立派にしとるかなと思って、掃除もきれいしてあるかな。経営はうまくいってるかなって見に行って来たつもりですけども、それも分からないように、さっと行って来たんですけども、散々叱られました。まあ、それは一生懸命やってるから、いいことだと思います。》

吉郎は、益夫が出所後に病院に顔を出すと、相当な剣幕で「出入り禁止」の通告をしただけでなく、「今後、病院に現れたら、すぐに警察沙汰にする」とまで警告した。益夫が刑事事件で逮捕されることを予測して、保有する病院の出資証券の名義を吉郎に替えたのを、吉郎はチャンスと見て乗っ取り工作を進めた。そして、益夫が出所後に資金繰りで出資証券を吉郎に担保として預けると、以後、益夫が「返せ」と言っても知らぬ存ぜぬを繰り返し、名実ともに病院グループを自分の物にしたとして、周囲にも吹聴し始めたのだ。益夫は生まれ故郷では「鼻つまみ者」と嫌われ放題だったが、吉郎の冷酷さ、独りよがりの強欲さは益夫以上ではないか。

《しかし、彼らが総合病院をやったことは事実だから、あまりなくそうとしないで、堂々と「うちの親父も学がないもんですから、いろいろ捕まって、税務署やら銀行やら、捕まったけども、何も人のものを泥棒したわけじゃないんだから、人を殺したわけじゃないんだから、まあ、1人しかいない親だから仕方がないと思って諦めております」と、「しかし病院は私たちが一生懸命やっていきますから、皆さん、協力してください」と言えばいいんだけども、幸さんも分かっとると思うけども、新潟から金が出たとか、彼ら、「それは、これは一切関係ない」とか、それでいいんです。一切関係がない。他人にはそれでいいんです。それを関係のない人に必要以上に言うから、皆が、分かっていますから、「何だ?」というようなことになるんだから。
まあしかし、幸さんのほうの3人の子どもも最高の学校に入れてくれて、私も何とか、曲がりなりにも、病院の理事長に、理事長常務に、吉郎君、ミツオ君のしたことについて、何とか少しは認めてもらいたいと思っております。
しかし、久しぶりの手紙、久しぶりの贈り物だったので、私も舞い上がって、うれしくて、うれしくて、うれしくて、明子にも報告をし、これでもう長いことないと私は思ってます、長いことない人生ですけども、幸さん、これで明子に、「幸さんが見舞いをくれたよ、手紙をくれたよ」と言えます。マスヨ(益代)はたまに連絡をしてくれますので、ありがたく思っております。どうか、つまらん、本当にどうにもならん、つまらん親でしたけども、許すという気持ちになって、大目に見てください。
今、私も週に3回透析に行って、朝4時に起きて、麻酔をして、7時から始まって12時に終わるんです。火、木、土、週3回、もう7年間行ってます。もう疲れました。しかし、何といいますか、いろいろ、彩夏ともユウト(佑人)とも、懲役おる時に手紙で約束をしてましたけども、それも何も実現できませんでしたけども、いつもいつも幸さんの立場、お宅たち、孫のことは陰ながら見て祈っておりますので、どうか。》(以下次号)

益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(2)

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(写真:種子田益夫)

前号に続き吉郎の妻宛の益夫の手紙を取り挙げる。益夫は、不正融資事件で有罪判決を受け服役したが、病院の出資証券は一部を手元に温存させつつ、残りを吉郎に預ける形で2億5000万円を借りたという。そして、出所後にそれを返してもらおうとしたが、吉郎から拒否された揚げ句、病院へ顔を出すことも拒まれた。さらに家族や親族にも会うことさえできず、孫が結婚したことすら人づてに聞いたという。吉郎の冷酷さが明確に分かる。

《暇になると私は理事長のことが心配でたまらないんです、正直言って。心配で、心配でたまりませんので、いつまでたっても、まだ10歳か15歳の吉郎君なんです、私の頭の中では。しかし仕事も立派にやっております。立派にやり遂げておりますので、幸さんがしっかりして、悪いことは悪いこと、いいことはいいこと、人の道を外れたら絶対にやかましく言って正してください。お願いします。本当にいろいろと言いたいけども、私が字を書けないので、今、テーブルの上にスピーカーを持って来て、録音して、これを清書してもらって、手紙にして出しますので、字が書けませんので、お許しください。
どうか3人の孫が幸せに生きるように、また幸さん、吉郎君が仲良くいるように祈ってます。
私は間違いなくもう長くはないということは、自分で分かっております。それでも一切何も言いませんので、私が何とかなったときには、身内だけで、幸さん、やってくださいね。身内だけで、誰も金にはしないからやってもらいたい。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

今日は初めていい気持ちで、私もばかじゃないけど、幸さんはこれだけ分かってください。親子だから、たまにはしゃべりたいことがあるんです。何もなくても、話したいことは頭にはあるんです。でも、会いたいな、話ししたいなと思っても、まず、20回電話をかけても、電話の1本も来ません。ヤスロウも30回かけても1本も来ません。せめて、外部に分かることじゃないんだから、私から電話が行ったら「俺に何か用事があったんか?」「いや、用事はないけども、声を聞きたかったんだよ。病院はうまく行っとるんだな」というぐらいのことなんです。それを私が、時間とか約束とか、そういうものは、もう完璧だから、電話かけたら、すぐ返事が来るものと思っとるもんだから、かけてもかけても留守電、留守電、留守電。メッセージ入れても、一切返事も来ない。
しかし、事業家は逃げてはいけない。堂々として、ましてや親父だから、何もめんどくさがらずに、まあ欲を言えば――欲ですよ、私の欲を言えば、三月にいっぺんぐらいは、「親父、どっか小さいとこで焼き鳥でも食べに行こうか」とか、「お茶でも飲もうか」と言うぐらいのことはあってよかったと思うけども、何せ、私と会うのが嫌、ものを言うのが嫌、ということ。しかし生活費だけは、今、50万ずつ、1年2カ月間送って来ております。ちゃんとありがたく受け取っとります。ありがたく受け取っとります。間違いなくやってくれていますので、感謝しています。

それも、普通であれば、もう要らないと言って、やらないほうがいいんだけども、皆が、「ロクさんの子どもさんは皆立派ですね。お父さんをちゃんとここにおらして、立派ですね」と言ってもらっていますので、私がいなくなったらどうしようともいいですけども、これも吉郎さんに迷惑掛けるつもりはなかったのです。懲役に行くので、2億5,000万担保に入れて、吉郎さんから借りました。それで帰って来て、すぐ返せる段取り、計画はしてあったから、帰って来て、返してもらおうと思ったけども、帰ってみたら、もう恥でいかんです。「恥ずかしいのをどっかで出たもので、預かります」という手紙も来てましたけども、それは吉郎君個人に預けたんですけども、それもあれは、病院のほうに12億5,000万で売られておるから、もうどうにもならん、病院から利益の10億は個人として取りたかったんだろうなと思ったから、もうそれに私は触れておらずに、黙っておるところなんです。
病院は社会の認めることだから、一歩違うと、またとんでもないことになりますから、真面目にやって、真面目にやっとってください。それは社会的に認められる仕事ですので、どうか、幸さん、もう二度と病院の土台はできません。そこを思って、大事に大事に、夫婦で協力し合って。幸さんの協力がなければできません。吉郎君もヤスロウ君も人のいいところがあるから、よく監督をして、仲良くしながらやってください。
今日はお礼のつもりでしたけれども、久しぶり、出す手紙ですので、いろいろ舞い上がって、いろいろ訳の分からんことを言ってますが、それはそれで、私の言いたいことはくみ取ってください。私の言いたいことは前向きにくみ取ってください。
私は、今、何とか皆さんの協力で、本当に人の情けというもの。皆の協力で、私は逃げて歩きません。堂々としておりますので、宮崎でも東京でも、皆が協力してくださって。バンジュンさんにしても、警察の人たちなんか、その時の事件の時の人たちは、皆守ってくれております。どうか、私も、彩夏と銀座をショッピングに歩くということが夢でした。また手紙でユウト君が何回も何回も、ビリヤードで、「ビリヤードをおじいちゃんに教えてやるから」という手紙も来てました。それを夢見て、行かないけども、夢見て、どうしとるかなと思っております。
どうか、体だけには気を付けて、皆家族、1人倒れても駄目ですから、家族全員、体だけには気付けてください。吉郎君の神経質なところはちょっと気になるから、これも早めに病院で診たほうがいいと思います。
本当に、今日は手紙、私の好物のお菓子を送ってくださったことを心から感謝しております。ありがとうございました。早速テープを手紙にして送りますので、中に訳の分からないところ、いっぱいあると思いますが、そこはいつものあれで、お宅たちの勘で読み上げてください。

幸さん、頑張るんですよ。負けてはいけない。しっかり、ビジョンは、しなくちゃいけない。女がしっかりしとるところは絶対成功します。はい。私もお母さんを苦しめたから、今は毎週お墓へ行くのが私の日課です。毎週行っとります。10年間通ってます。
どうか、罪は許してくれると思いますので、苦労掛けたな、若いのに苦労掛けたなと、すまなかったという気持ちはお祈りしてあげてますので、どうかお許しください。彩夏によろしく、よろしく言ってください。どうもありがとうございました。》(つづく)

益夫が吉郎に宛てた手紙で「病院を潰す」とまで言及した真意

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9年前の平成26年3月に益夫が吉郎に宛てて書いた手紙を、一部だが公開する。益夫の収監が解けてから約5年を経過した当時、益夫は吉郎から事実上絶縁状態に置かれた。その心中を手紙という形で語りかけているが、吉郎が益夫を騙して病院グループを事実上乗っ取ったことに憤り、吉郎の対応次第では「病院を潰す」「告訴も辞さない」とまで言い切っている。

《吉郎へ  血を分けた親子の間で、このようなことをしかも、文書でやり取りすることになることを想像していなかったが、会うこともできない状態であれば、これも止む無し。
心優しいお兄ちゃんとして、益代や安郎に慕われていた、そして母にも頼もしく思われてた、吉郎が、どうしてこうなったのか、じっくり考えてみた。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

ことは、3人の子供たちが、仲良く安定した生活ができるようにと、病院経営に着手したことが、全ての始まりだったと思う。
1 宮崎の病院設立 2 高知の病院取得 3 八幡病院の経営権取得
4 小倉の病院の引き受け  5 牛久の病院の取得
いずれも、譲受け時及びその後の運転資金の補充と施設の改修・増築、また新築及び医療器具の充実…これらに相当の資金を注入したが、今まで、この時期の壮絶な資金の確保に要した苦労は、3人の子供には決して話したことはなかった。
3人に綺麗な形で施設を渡して、仲良く経営していくことが、親である私の務めであるとして、時として、会社の資金を一方的に流用したり、会社利益を強引に病院に注ぎ込んで来た。その結果の一つが、所得税法違反として、刑事責任を問われることとなったのだが…。
病院施設の規模の当初目的であった1000床のベッドが確保され、とりあえず、当初の設備投資が一段落し、吉郎を後継者として、どのように教育すべきか迷ったが、医療関係者から、「医療関係業界に3年程度入って、病院の運営の実態(医師の役割、事務長の権限、職員の採用・罷免、医療材料の仕入れ、薬剤の採用過程)等、いろんな分野で生の情報に接することが可能である、と同時に、病院経営のノウハウが確実に得られることは間違いない」と助言を受けたことがあったが、私はこれを完全に無視してしまった。というより、その意味を理解できなかった。結果として、全職員に君臨するという、そのことに快感を覚える、そのような風に吉郎をしてしまったことを今となって後悔している。

(写真:種子田益夫)

売防法および所得税法違反が確定して、刑に服したとたん、病院の存在している(各病院の所在地にある)県医師会が一斉に、特別医療監査を県に対して要請したことがあった。
その最大の理由は、刑法に触れる事案を有する医師ではない人物が医療法人の理事長であることが、容認できないということであった。ましてや売防法及び所得税法違反容疑者が、医師会としてはとても許せないことだったようであった。特別医療監査の実施がどのような意味を持っているか、それが医療施設にとってどれだけ恐ろしいことであるかは、各病院を取得していくごとに耳にしていたので、理事長辞任を承諾することを各病院事務長に伝え、ようやく事なきを得た経緯がある。
このことを吉郎は知らないだろうが、吉郎を理事長にし、私が病院から一切退くことにしたのも、この事情による。
しかし、このことは、私が3人の子供に病院経営を引き継がせたいという思いからは反することではなく、吉郎の経験不足、勉強不足について一抹の不安はあったものの、周囲がサポートしてくれることを信じて、理事長の席を譲ったのであった。》
益夫は県医師会が申入れした特別医療監査をかわすために自ら理事長職を退いた、というが、「医師ではない人物が医療法人の理事長職にある」ことは医師会にとって決して好ましいことではないというなら、吉郎も当然問題になる筈だ。そこで、益夫は自民党厚労族の重鎮に手を回し、吉郎の理事長就任の根回しを図ったとみられている。

《吉郎が、病院理事長として全面的に社会に出てみて、理事長の父である、病院の創業者が刑事罰を受けているということは、ひた隠しにしたい気持ちは十分理解できる。そうであったら、そのように言ってくれれば、父としては、何もためらうことなく、承諾できたはずである。しかし、吉郎の真意はそうではなく、本気で病院は自分だけの力でつくったものであり、私は一切タッチするなと言っていると解釈せざるを得ない。安郎や益代にも会うことを禁じ、孫との接触を禁じられ、ましてや、孫の一人からは、爺さんを殺すとまで言われている。
どうしてこのような事態になったのだろう。
吉郎は、すべて原因は親父のしたことに起因していると言っている、と解釈せざるを得ない。
私は、現在腎機能障害により人工透析を週に3回治療を受けているが、私が立ち上げた病院での治療が受けられないという事実、この無念さは子供たちはどう思っているのだろうか。
子供たち3人が仲良く運営してくれることを最大の希望として、苦労して築いた病院であったが、吉郎の言動から、真っ向から否定されるのであれば、もはや病院を存在させておく理由は、完全になくなったということになる。
群馬医大や東京女子医大からの常勤医師の派遣運動は筆舌に尽くしがたい苦労であった。現在、どの病院もこれら大学医局のバックアップなしには病院の存続は有り得ないのは紛れもない事実である。
今後は、医局の医師派遣に応え得る病院の態勢の充実(ハード面でもソフト面でも)を期することであると、密かに安どしていたことであったが、私の思惑とは全く反して、病院を私物化しようとしているとしか思えない吉郎の言動を見聞きするに及び、
何のために病院を設立したのか
設立・拡充してきた努力は何だったのか
を考えざるを得なくなっている。
吉郎に聞きたい。
1 心底、病院は自分の努力のみで設立したものであり、父の支援は一切受け
た事実はない。
2 今後も病院経営に関しては、絶対に触れて欲しくないし、触れさせない。
3 益代や安郎であっても、病院の運営方針に支障がきたすことが予測されたり、存在が耳であると判断した場合には、彼らを排除することも有り得る。
4 宮崎の胆牛荘は、病院の資金で競落取得したものであり、父から取得資金を事前に受領していた事実はない。従って完全に病院資産であり、父使用貸借を認めているものである。
ということであるのか?
心底、吉郎がそのように思っているのであれば、父として取るべき手段を講じる必要がある。心して返答しなさい。
2014/3/7 種子田益夫》

益夫は、自分が病院に行けば、正面玄関に院長ほか幹部スタッフを勢揃いさせて送迎させ、あるいは病院にある備品のグラス一つまで「自分の物だ」と言って憚らなかった。それほど病院に執着していた益夫が、息子の吉郎に病院を乗っ取られるとは予想もしていなかったに違いない。手紙では吉郎の仕打ちを何とか許容するような意思を見せているが、「病院を潰す」とまで断言するところに益夫の深い憤りが読み取れる。ただし、益夫が病院の維持や買収の為に注ぎ込んだ資金を真面に返さず、それで病院は種子田一族の物だと言っても、それは決して通らない話だ。まして、吉郎は父親から理事長職を預けられた人間に過ぎない。「濡れ手で粟」のように病院施設を牛耳る事など許されるものではなく、先ずは債権者に債務を返還することを優先すべきではないか。(つづく)

益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(3)

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6年ほど前の2017年3月、種子田益夫が次男の安郎に宛てた手紙がある。益夫が資金繰りのために長男の吉郎に牛久愛和病院の出資証券を預け、2億円を調達したが、その後、吉郎が出資証券の返還を拒んだことから父子の対立が深まった。そうした渦中で吉郎が益夫からの連絡に一切対応しないため、安郎宛に手紙を送ったとみられる。

《安郎くん、夕べは遅くまで電話かけて申し訳ない。実は、○○弁護士から安郎くんの名前で、常仁会の株を預かったこともない、見たこともないという内容証明が来ましたので、それをそう言って物事が通るわけありません。確かに宮崎の裁判のために2億円要るときに、新潟の山で借りるようにしましたが、新潟の山だけでは金が出ないということで、もしこの出資金(出資証券 以下同)、私が持っているものを全て持ってきてくれということで、すぐ取りに行って、直してあったのを渡して、帝国ホテルまで持っていきました。安郎くんも吉郎くんも2人おりました。そこで渡して、送金2億円をやってもらうようにして帰りました。預かり証と言ったんだけども、後でやりますということだったから信頼して帰りました。今金を返すから、返したときには出資金を返してください、土地を返してくださいと言ったら、吉郎くんは、出資金はシュレッター掛けたと言われました。そんなことをお父さんに言えるはずがないと思ったけども、仕方がない、自分の子どもが言うことだから、何とでも言っているんだろうと。出資券(出資証券)は5億円、現金を持っていって買い取ったものであります。みんな知っています》
この流れを読んだだけでも、吉郎が牛久愛和病院の出資証券を父益夫に返さず、乗っ取りを画策した経緯が分かる。吉郎による病院グループの乗っ取りは、益夫が東京商銀事件で有罪判決を受け服役することになった平成17年前後から着実に進行していった。出資証券は益夫が病院の大株主(オーナー)である証だった。それを、吉郎は2億円の裁判費用を益夫に著辰する代わりに預かると称して騙し取ったのだ。何とも卑劣なやり方だ。親子だから事件にはならなかったようだが、以降、益夫の呼びかけに吉郎が一切応じなくなった経緯を見ても、吉郎の冷酷さが窺い知れる。

《ただ怖いのは、お父さんが悪いと言えばそれでもいいでしょう。どんな謝りもします。しかし、お父さんの弱みにつけこんで、これでもか、これでもかといじめるようなことをすると、お父さんもばかじゃないので、兵庫県の病院作るために銀行の金で別に85億円を、4つの株式を買う金、資金繰りのための部外の借金を払うのに85億をつぎ込みました。それは全部帳簿を見れば分かります。裁判所に言って帳簿閲覧を、帳簿を出してもらうように手続きを取ろうと思っております。
何もないお父さんは、お父さんとお母さんは、一生懸命働いて3人の子どもに幸せになってもらうために、どんなに苦しくても出資金は1万円も外部には出しませんでした。それは命懸け、体を張って残した出資金を、シュレッターを掛けたとか、預かった覚えはないとか見たことがないとか、それでは通らないと思う。確かに病院は私が全部作って私がやっていたんだけども、事情によって私が現場を離れなくちゃならなんなったから、その間には弁護士に任そうということで決まったけれども、しかし、種子田家で吉郎くんを信用しなけりゃ誰を信用するんだという私の気持ちがそのようになったので、預けていきました。預けていって帰ってきてから、おやじ、病院はこうこうだから、われわれでやるから資金を全部頂けるんでしょうかというぐらいのことを言うかと思うとったら、つらく私を当たって、本当に歩けないぐらい全てをやっておりました。しかしみんな裏から教えてもらいました。レイムケッテイの役員の方も私に会いに来ました。社長には一番先に会いたかったけども、息子さんのほうで、お父さんに会うといけないようなことだからとか、社員もものを言いたくても、ものを言ったらまた吉郎くんから目を付けられるということでびくびくしておるから、私のほうから遠慮して何ともものを言っていません。言う気持ちもありません。しかしあまりにも、お父さんを踏みにじったときには病院もなくなるときです。必ずなくなるときです。なぜこの前も会うと言って、ホテルまで取っていたのに、風邪だというから仕方がない、風邪なら仕方がないと思っていました。もう風邪が治って弁護士のところに行ったり、あっちに行ったりこっちに行ったりしとるんだから、晩にすぐに連絡を取って、会わなければ会わない、そう言ってくれなければお父さんは毎日約束を破るのは大嫌いだし、時間を破るのは大嫌いだから、毎日、いつ来るのかということで気を掛けています。》(以下次号)

益夫が子供とその家族へ宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(4)

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《なんか吉郎くんに、お父さんが罪になったこと、そういうことで迷惑掛けたことは確かにあります。しかし、小さい、生まれたときから何一つ困らさず、何一つ不自由させず、お母さんと一生懸命やってきたつもりです。それがあの子には分からないんです。残念でたまりません。おやじ、きょうは焼き鳥でも食べようか。おやじ、たまには事務所にも寄れよと。たまには病院に<聞き取り不能>と言うんじゃなくて、病院に来るんじゃない、事務所に来るんじゃない、自分の子どもとも話をするんじゃないと、そういうことが通るでしょうか。そのようなことが通るでしょうか。そのようなことをして、親にそのようなことをすれば、そばで見とる人間は軽蔑します。なんだと。いくら吉郎くんが、病院は俺が作ったんだと言っても、それは自分で一生懸命やったでしょう。しかし土台を作ったのは、お父さんが土台を作ったから、その運営がやれるし、その運営が大きく出ているんだから。ささいな病院でもおやじが作ったんだなと、大きくしなくちゃいかんだなと、おやじ、お茶でも飲もうかと言わなきゃいけないんだなと。吉郎くんが作る、やるときと、私がやるときは天と地の差があります。苦しい中でやりました。患者が入らないのを入れるために一生懸命でした。患者が満杯に詰まったから私が刑務所に行ったんです。それまでは延ばして延ばして行けなかったんです。それも分からず、お父さんを恨み、お父さんをばかにし、お父さんを見下げて、せっかく心配してくれるバンジュンさんたちがおられるのに、私の関係者も安郎くんからの内容証明を見て、2人とももう許すことできないなというところまで来ました。絶対にこれは許せることじゃないというところまで来ました。しかし、待ってくださいと電話かけて、本人に聞かなきゃ本人の意志が分からないからということで、夜遅くまでおられたのです。帰った後にあなたからの電話が分かったので。
安郎くん、お父さんは人殺しをしたわけじゃない。人の物を盗んだわけじゃない。事情があって刑務所に行ったんだから、その苦しみはあんたたち子どもがきれいな気持ちで接してくれなければ、お父さんはいつもつらい思いをしていなくちゃなりません。少し言ったら、生活費も止まり、生活費を削って、いつもお母さんに、吉郎がやってくれたよと。安郎くんの分はお母さんは生きとるときから知っていました。安郎くんは優しい子だから、お父さん心配ないよと。吉郎くんは怖いと。あの人は怖い人だからと言っていましたけど、全然分からなかったけど、今になって分かります。自分の家庭が第一、あとはどうでもいい。お父さんも銀行員、および銀行にも話しに行くつもりでおりましたが、お父さんが行けば終わりになります。絶対には終わりになります。そのぐらいの自信はあります。宮崎の市長が私の開発を邪魔したから、お父さんは3カ月かかって保健所長に、市長に出てもらうように、昨日出るということを宣言してもらいました。これで宮崎市長も変わるでしょう。それも私の開発を邪魔したから、私に付いとる人たちがみんな一生懸命やってくれています。
吉郎くんも男だから、お父さんが悪いところを、お父さんを許すことができなければ、お父さん土下座突いてでも頭下げます。謝ります。しかし分からなくて、罪のことは分かるけれども、それ以外に生活でも何でも苦しめた覚えはないし。安郎くんも、吉郎くんが曲がったことで動くときには止めなくちゃいけないんだよ。止めなければ吉郎くんは刑務所行きになります。間違いなくなります。病院の経営も、出資金は私が全部持っとるから勝手に全部やっていいという法律はない。うちの弁護士も全部調べています。できることなら、お父さんもあと少ししか生きません。少ししか生きられないのを、ひがみ合って生活するよりも、生活費もやりたくなければやらなくていい。自分で働いて食べなくちゃいけないことぐらい分かっています。安郎くんのお金で助かっています。本当に安郎くんありがとう。そして私が死ぬときには、安郎くんが送ってくれた金は全部返すようにしておきます。それだけは安心しとってください。
吉郎くんも目を覚ましてもらいたい。近いうちに会って、言いたいことがあれば聞きます。怒りもしません。お父さんが悪ければ聞きます。金をやりたくなければ仕方がないです。兵糧攻めといって一番人間のやり方の汚いやり方。兵糧攻めというんです。3月31日間で宮崎のカンリユソウもやらないと言っていますけども、今見てもらえば分かります。写真も付けておきます。私の小さい土地を売った金を全部、もう20年たって、雨が降ったらカンリユソウも庭が水浸しになるので、配管から石から管から全部変えて、松の枝も切って素晴らしいものにしてあります。お父さんが死んでいってもきれいなもんでなるように、全部終わりました。あと1年生きるか2年生きるか知らないけれども、もう歩くこともままならない、飛行機に乗ることも大変な作業です。しかし、働かなけりゃ食えないので、頑張って何とか食っていきます。
安郎くん、絶対曲がったことに加担してはいけない。うそに加担してはいけない。そのしっぺ返しのひどいものが返って、あなたたちも1回でも警察にお世話になると、もうこれで病院の役員もやっていけませんよ。お父さんの二の舞だけはしないでください。出資金も帝国ホテルに、あそこで持って来いと言われるから、悔しかったけれども、アリノミだから言われるまましなくちゃいかんから持っていった。今度はそれをシュレッターに掛けたとか、もらった、取った覚えはないとか、出資金は●ないとか。国税局が預かっておって、国税局からもらって、国税局の印鑑が付いてあるじゃないですか。そんなものを自分が勝手に苦し紛れに言ってはいけない。これが自分の子だから黙っておりますけども、他人さまだったら絶対許しません。弁護士だっても許しません。このことは、テープですから手紙に訳して送りますから、吉郎くんにも見せてやってください。お父さんをばかにしてもいいけども、ぼけとるわけじゃないから。そういう預かったものを預かってない、そういう人間にはならないようにと、この手紙を見せてやってください。
安郎くん、いつもお世話になります。頑張るんですよ。頑張って、そういう真っすぐなことで頑張ってください。弁護士のところへ行って金を取られて、うそ八百書いて、お父さんに手紙出しても通りません。お父さんは全部裏付けを持っています。証拠を持っています。証拠のないことは言いません。私の知り合いの人も、安郎くんだけは話が分かるように言ってあるんだけどなと、分かってくれてないのかなと非常に残念がってました。お父さんの電話だけは、お母さんがいなくなってからお父さんも寂しいので、何も用事はないけども、どうしとるんかなと思ったときに電話かけたときには、なにも会うわけじゃない、電話ぐらいは出てください。それが人間の道です。人間の道を外さないでいてください。おやじ、なんか用事か、いや用事ないよと。声を聞きたいだけですよと。そのぐらいはやっても罰は当たらないと思う。学校出てからすんなりとお父さんの土台を作ったところで働けて、その土台を作った人をばかにし、いじめ、それで吉郎は楽しんどるんです。しかし一遍は私と、あれだけの手紙を私にやったんだから一遍は番重さん立ち会いで会っておかなきゃいけないので、今月の15日ぐらいまでに会うようにするように言ってください。申し訳ないです。(以下次号)

種子田益夫が逮捕前に必死で隠した機密書類の中身(1)

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種子田益夫が3つの金融機関を不正融資で破綻させたことが発覚したのは平成8年の武蔵野信用金庫を巡る事件を警視庁捜査2課が摘発したのが始まりだった。2年後の平成10年に国民銀行が金融庁から712億円の債務超過を指摘される中でカミパレス(歌手の石川さゆりの関係会社)に対する約90億円の不正融資が発覚して国民銀行が破綻、さらに3年後の平成13年に東京商銀信用組合の理事長(金聖中)の特別背任事件が東京地検特捜部により摘発され同信組も破綻した。カミパレスに対する不正融資は、石川の背後にいた種子田益夫が実行したことは明白で、国民銀行の不良債権を引き継いだ整理回収機構が、種子田益夫と石川に対して訴訟を起こし、判決では種子田益夫には約53億円、石川には約2億2000万円の支払命令が出されたが、これを不服とした整理回収機構が控訴する中で連帯保証をしていた石川の自宅豪邸を差し押さえたことから、石川が10億円の和解金を支払うことで決着するという経緯があった。種子田益夫が責任を果たして債務の支払いを履行していれば、整理回収機構は控訴しなかったに違いないが、逃げ回る種子田益夫からの回収の見込みが全く立たず、連帯保証をしていた石川に牙を向けたのが実情だったとみられる。
東京商銀信用組合を巡る事件は、発端は飽くまで理事長による個人的な業務上横領だったが、捜査が進む中で理事長ほか執行部が同信組の系列会社2社を通じて種子田益夫に対して株投機やゴルフ場への融資等で不正融資を繰り返していた事実が表面化し、理事長の逮捕から日を置かずして種子田益夫も逮捕されるに至った。

こうした事件の渦中で、警視庁や東京地検特捜部が種子田の会社だけでなく自宅ほか関係個所を家宅捜索する前に、種子田益夫が見られては困る多くの重要書類を密かに隠した。ダンボール箱にすると10箱以上にもなる大量の書類だった。書類が作成された日時を見ると、やはり国民銀行の破綻と東京商銀信用組合事件が表面化し破綻に向かった時期と一致するものが少なくない。種子田が容疑に関係すると思われる書類をいち早く隠し、罪を逃れようとしてダンボール箱に詰め込んだことが第一の理由だったことが窺える。
実はこの段ボール箱に詰め込まれた大量の書類がオーナーのもとに運び込まれた直後、それを知った益夫が慌て、日常的にボディガードを依頼していた暴力団の組長に頼んで取り返そうとしたことから、組の幹部だけでなく周辺関係者達がひっきりなしに接触を図ってきた経緯があった。その時には、暴力団の幹部組員が強力な脅しをかけてきたり、逆に高額な金額での買取を提示する等様々な動きを見せたが、オーナーほか関係者たちは一切応じなかった。そうした経緯があっただけに、これらの資料群が益夫にとっては第三者の手に渡ったり公表されれば致命的となる非常に重要な機密性を帯びていた事が分かる。オーナーと債権者たちは、益夫が取り返そうとして暴力団にまで頼んだ事実を踏まえ、しばらくは静観することにして、段ボール箱をそっくり手元に確保していることさえ口外しなかった。
種子田にとって見られては困る重要書類は、多岐にわたっていた。すでに触れた金融機関、中でも東京商銀信用組合の系列2社との取引に関わるもの、種子田の秘書とみられる社員の日報、アイライフや富国開発等の名うての金融業者とのやり取りや株の仕手戦でも名を馳せた高橋治則(EIE代表)の名が登場する書類もある。
そうした中で目を引いたのが、吉郎の病院グループと種子田益夫、アイワ企業グループと病院グループが密接なつながりを持っていることが裏付けられる書類が数多く見つかっていることだ。種子田がオーナーを始めとする債権者たちから多額の資金を借り受けて病院施設を買収し、また運営維持に当たってきた事実は何人もの関係者が証言しているのだから当然だが、益夫が「いつでも病院を担保に供する」と何回も断言したり、「病院の理事長は息子にしているが、息子も病院は父からの預かり物なので、いざとなったら必要に応じていつでもお返しすると言っている」などと言って借入を繰り返したにもかかわらず、その約束を反故にしたばかりか、吉郎もまた「父親と病院は関係ない」という開き直った言い訳を繰り返して債権者との接触を拒み続けた。しかし、益夫は吉郎に指示して毎月6000万円もの裏金を出させていた事実が判明しているが、資料の中にもアイワグループ企業が病院グループから借受金の名目で資金を頻繁に調達していることを示すものが見受けられる。

しかし、例えば病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は昭和61年に、また高知愛和病院や小倉愛和病院などは、それぞれ平成5年と同9年頃にかけて愛和メディカルというアイワグループ企業が買収した(小倉愛和病院は土地建物合わせて約3億円)うえ、これも、益夫への“上納金”の一種とみられるが、愛和メディカルが賃貸人となって各病院に施設を賃貸するというやり方をしていたり、高知愛和病院の施設を拡充する際にも、吉郎がその決済を益夫に仰ぐだけでなく、承認を受けた後の資金調達でも益夫が金融業者のアイライフ(旧アイチ)から受ける融資額を膨らませつつ担保として高知愛和病院に根抵当権を設定するなどの処理がなされているのだ。しかも、この手続きは当然ながら吉郎自身が行っていた。
吉郎がいくら「父益夫と病院は関係ない」と言ったところで、各病院を買収して病院グループを形成していったのは種子田益夫自身であり、吉郎はただ益夫の指示に従って動いただけで、決済に関わることは何もしていないことが、これらの資料からも証明される。病院グループは茨城銀行ほかいくつもの金融機関から億円単位の借入を行っており、各病院施設の土地建物には抵当権や根抵当権が設定されているが、アイライフからの借入経緯を踏まえれば、益夫がアイワグループ全体の資金繰りで病院施設を担保に供しており、病院グループもアイワグループの一員であって、理事長としての職責を果たしていたのは吉郎ではなく益夫であったことが窺われる。吉郎が毎月6000万円の機密費(一病院当たり約1000万円)を作り、益夫に届けていたことは病院関係者周知の事実であった。

また、愛和メディカルが病院施設から毎月の家賃約270万円を徴収していた関係から、アイワグループに融資をしていた金融機関(国民銀行、わかしお銀行ほか)が家賃を差し押さえ、あるいは病院施設の土地建物に抵当権や根抵当権を設定する等の事態が相次いで起きていた。これらの処理も全て吉郎ではなくアイワグループの幹部社員たちが益夫の指示を受けて行っていたが、国民銀行が破綻を免れるために種子田益夫(アイワグループ)からの債権回収に必死になっていたことがよく分かる。
日報には多くの金融機関が毎日のようにアイワグループ企業に連絡を入れ、返済の督促をしている記述が見られるが、種子田益夫自身は幹部社員たちに指示を出しているだけで、幹部社員たちが返済を繰り延べさせる対応に追われている様子も窺える。
これまでにも触れて来たとおり、種子田益夫は反社会的勢力の密接な共生者としての経歴や売春防止法違反や脱税等の多くの逮捕歴がある人物だっただけに、表の金融機関がおいそれと融資に応じる訳ではなかったから、一般企業の財務状況とは明らかに異なり、名うての金融業者からの借入が常態化していた実態が日々の資金繰りを記載するファイルからも明らかだった。そうした状況の中での金融機関の経営危機(破綻)がアイワグループの経営に追い打ちをかける状況になったとみられる。(以下次号)

種子田益夫が逮捕前に必死で隠した機密書類の中身(2)

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ダンボール箱に詰め込まれた資料には、どんな秘密が隠されているのか。一つ一つのファイルや書類を精査していく中で、種子田益夫がアイワグループ企業では絶対的な存在であり、幹部社員たちまでもが益夫のことを「オーナー様」とか「種子田オーナー様」などと呼んで、極く些細なことまで文書で決裁を仰いでいる光景が浮かび上がっている。ゴルフ場系列会社の平成ゴルフ倶楽部の大阪支店が富士銀行(現みずほ銀行)のキャッシュカード1枚を新たに作った際の「お伺い」もその一例だが、支店を統括する支店長ではなく、益夫にまで稟議書を上げ、メリットやデメリットを細かく書いて許可を求めているのだ。

種子田益夫は昭和12年1月21日に宮崎県の小林市で生まれ、父親は鮮魚商をしていた。益夫は21歳の時に丸益産業を設立して金融業を始めたが、間もなく失敗して小林市を離れ神戸や岐阜、名古屋などを転々としていたという。その後、昭和45年に宮崎に戻り小林市で養豚業を始めたが、わずか3か月で失敗した。また、ドライブインの経営や金融ブローカーなども手がけたが、いずれも長くは続かず、昭和53年頃に事業の本拠地を東京に移し、不動産と金融ブローカーをしながら中央産商という会社を設立した。これがアイワグループの始まりだった。
見てきたように、益夫は事業を起こしても長続きがしなかった。それは単に経営能力だけの問題ではなく、事業をまともに進めていくという発想がなかった事に原因がある。種子田益夫はゴルフ場経営をアイワグループの中核事業に位置付けていたが、実態は会員権の乱売を繰り返したに過ぎず、個々のゴルフ場のパンフレットには病院グループを紹介して、アイワグループの信用力を高め金融機関からの借入をスムーズに進めようとした思惑が働いていた。
益夫のやり方は、金を貸した先の会社を乗っ取ったり、手を出した観光事業も宮崎の地元の金融機関の不良債権を引き受けたものでしかなかったから、事業を着実に拡充させようとする意欲がほとんど感じられなかった。しかも、益夫は借入先への返済では必ず小切手や手形を振り出して与信させるが、そこに記された期日を守ったことはなく、返済期日を繰り延べする為に小切手や手形を書き換える手続きを頻繁に繰り返していた。小倉愛和病院がある小倉市役所(今は区役所)の税務部門の担当者が「送って頂いた手形の件、5/31までに300万払ってくれませんか。あれだけの診療報酬が上がっているのに、500万位の税金が払えないのは非常識です」と電話を入れていたことが日報に記載されているが、益夫への伝言メモには担当者が「このままでは降格処分にされてしまう。必ず電話をくださいよ」とまで言って困惑している様子も書かれていて、益夫が支払いの与信で発行する小切手や手形が見せかけに過ぎないことを示す実例に違いない。債権者も融資をするたびに益夫からアイワグループ企業の手形や小切手を受け取ったが、期日通りに処理されたことは無く、何度も先延ばしを繰り返したが、益夫は債権者から融資を受ける度に「手形が不渡りになる」と言っては土下座をして額を床にこすりつけながら涙を流すのが常套手段だった。そして借り入れができて債権者の会社を出ると、同行していた部下に笑顔を見せて「上手くいった」と舌を出すような表情を見せた。土下座も演技なら涙もウソ泣きだった。益夫は借りるだけ借りておいて、返すことは何も考えていないことが分かる。そうした益夫の対応を頻繁に見せられ、益夫の人間性を嫌って途中で退職する部下が少なからずいたのである。

益夫はゴルフ場の会員権の違法な乱売を繰り返して資金調達をしたが、上がった売上の多くはアイワグループの本社ビルの建築や、銀座での飲食の豪遊等の遊興、さらには宮崎市内にそれぞれ50億円以上の費用をかけた洋風と和風の別邸のほかにも敷地数千坪を有する別荘を海沿いの郊外に所有するなどの費用に充てられた。これだけを見ても、益夫が虚業家である事が分かる。ちなみに宮崎では「種子田益夫には近づくな」と言われるほど悪行ぶりが知れ渡っていた。
吉郎は益夫が住む所を転々としていた頃に岐阜で生まれたが、幼少の頃からそういう父親を見て育ってきたからか、病院グループの理事長に就いて後にいくつかのインタビューに応じた時にも、特に父益夫との思い出については「ほとんど覚えていません」と言って話をはぐらかしてきた。それは今も変わらないが、父親が反社の人間で犯罪歴がたくさんあるということを言える訳がない。しかし、その一方で吉郎は益夫の人格を十分に受け継ぎ、というより場合によっては益夫よりもより悪質な人格を形成しているのではないかとさえ思われる。
それが、理事長として7施設の病院を擁する病院グループのトップに君臨している吉郎の今の姿に見事に表れているのではないかと思われるのだ。本来であれば、益夫が金融機関を3つも破綻させた結果、国民の血税が巨額に注ぎ込まれたにもかかわらず、一切知らぬ振りをして逃げ回り、債務不履行を繰り返していた益夫に代わって病院グループが総力を挙げて返済に努力するのが理事長でもある吉郎の責任であり当然のことなのに、吉郎以下益代と安郎の弟妹たちは一切知らぬ振りを決め込み、揚げ句には益夫の死後に揃って相続放棄をするという暴挙をやってのけたのだ。益夫は東京渋谷区内に住民登録をしていたが、実際には宮崎市内の別邸にいる事が多く、対外的には自身の所在を不明にしていたが、吉郎もまた公表していた住所地には住んでおらず、実際には家賃が200万円を超える外国人ビジネスマン向けの超高額のマンションに住むという姑息なことを長らく続けて来た。場合によっては債権者からの差し押さえを危惧して自宅を所有していないという発想かもしれないが、そこまでするのも父親譲りとすれば、あまりにも度の過ぎる悪知恵と言わざるを得ない。
益夫と吉郎による債務不履行は、金融機関だけではなく、オーナーを始めとする債権者たちに対しても同じであった。

種子田益夫とアイワグループ、種子田益夫と病院グループ、そしてアイワグループと病院グループという、このトライアングルの一角を、益夫は関根栄郷という悪徳弁護士に知恵を絞らせて法的な関係を遮断することで益夫が作り続けた巨額の債務の返済を回避させ、病院グループを種子田一族の財産として残そうとしたのである。そして、益夫が令和元年10月13日に死亡したことで、吉郎と益代、安郎の兄弟は相続放棄という最終段階での法的手続きを取った。それは、益夫が吉郎に遺した遺言であったのだろうが、吉郎には個人としても病院グループの理事長としても社会的責任を全うする感覚が一切ない。そんな人間に理事長という要職を続けさせ、また病院グループを一族が支配するなどということが許されていいはずはない。

ダンボール箱から取り出せば山のようになる資料の中には、実体として益夫が病院グループのオーナーであり、全ての差配を振るって権限を行使して来た事実が数多く残されている。
一つの例を挙げれば、高知愛和病院を巡る平成9年当時の報道記事がある。同病院は地元では老人病院として有名なほど患者は高齢者ばかりだったが、衰弱患者が1年で20人も出る、つまり健全な治療をせず、患者を衰弱死させてしまうような方針を取っていたことが大きく報道されたのだ。
これに対し、本来ならば理事長たる吉郎が陣頭指揮を執って事態の収拾に当たるにもかかわらず、実際に動いたのは益夫と関根弁護士だった。益夫は目先の対応として、一旦病院を第三者に売却(約7億4000万円)する体裁を作り、その後にほとぼりが冷める時期を見計らって再び病院グループに組み込むという乱暴な手段を講じたのである。そこには公共性の高い病院としての使命感は微塵もなく、ただ患者を一切無視して実利だけを追い求める姿勢しかない。
今、吉郎が率いる病院グループには多くの介護老人施設があるが、その経営姿勢に問題は無いのか。吉郎もまた、学習院大学の大学院でホスピス(終末医療)の研究を専攻し修士課程を終えたという学歴を有しているが、果たしてその成果が実際の介護施設で生かされているのかは大いに疑問としなければいけないと思われる。
ここで触れている内容は沢山の資料の中でもほんの一部に過ぎない。今後も精査を続ける中で、未だ明らかになっていない新事実が多く見えて来るに違いない。そうなれば、もはや吉郎はひた隠しにして来た、父親が反社会的勢力の密接共生者であった事実はもちろん、さも吉郎自身が常仁会病院グループをM&Aにより構築したという姑息な作り話など誰からも信用されないことを自覚せざるを得なくなる。(つづく)

「病院グループは自分が創業した」と大ボラを吹く吉郎(1)

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種子田益夫が病死したのは今から4年ほど前の令和元年10月13日のことだった。それが大きな理由になったのか、「常仁会病院グループ」(晴緑会、明愛会、白美会の各医療法人を傘下に全国に7医療施設)の理事長の座にある長男の吉郎が、病院グループをさも吉郎自身が創設から築き上げて来たかのような発言を大っぴらに繰り返しているようだ。そうした事実など一切ないにもかかわらず、何故そんな大きな口が叩けるのか。病院グループの創設に関わった関係者の多くが死亡し、あるいは益夫が率いていたアイワグループから去って行った中で、「私が支配者だ」と広言しても誰からも吉郎に対して抗議はおろか文句の一つも出るはずがない、とでも思っているのだろうか。
インターネット上で経営者を紹介する「注目社長情報館」というサイトがあり、そこで吉郎がインタビューに答えているが、その一部を以下に抜粋する。
〖私(吉郎)の性分では、サラリーマンには向いていないということを自分でも理解してました。そんなことを考えていた時に出会いがあり、倒産寸前の病院の話しを頂きました。「どうせサラリーマンは出来ないしやってみるか!」と引き受けたのが病院経営の始まりでした。その病院を立て直したら、色々なM&Aの話が舞い込む様になり、気が付いたら経営する施設が増えていたと言う状況です〗
これを読むと、吉郎は常仁会病院グループを自力で立ち上げ、現在の姿に築き上げたという印象を周囲に与えるが、全くの嘘だ。吉郎がこのインタビューの中で、吉郎は父益夫の死を「一昨年」と語っているので、令和3年に収録され掲載されたものだろうが、もし、益夫や何人かの幹部が生きていれば、絶対に言えない嘘を吉郎は語っている。
倒産寸前の病院の話をしたのは誰か? その病院はどこにあり、どのように立て直したというのか? 吉郎には答えられるはずがない。何故ならば、吉郎は日本大学を卒業後、わずか1か月ほどアメリカの医療施設等を視察する旅行に参加した後、何の資格も経験もないまま、益夫が全資金を調達して買収した病院施設を統括する東京本部の常務に就き、それが吉郎のスタートとなったからだ。お膳立てをしたのは父の益夫であり、その側近の一人だった田中延和氏であった。その田中氏が書いた陳述書には以下のように書かれている。
〖種子田益夫氏は私に病院経営を一緒にしないかと誘われ、その折、長男の種子田吉郎氏が大学を卒業したので、これを機会に1か月間アメリカの医療状況を見てくるように言われ、二人でツアーに参加しました。これが吉郎氏との出会いであり、病院経営の始まりでした。そして、大阪、高知、九州、計4カ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り、私が専務取締役本部長になり、吉郎氏が常務というポストに就きました。基本的な方針は、種子田益夫氏から私共に指示があり、これに基づいて具体的な方針を実行していきました…〗
これを見ても分かる通り、吉郎は右も左も分からないまま、ただ田中氏に付いて周囲をうろちょろしていたに過ぎなかったのである。もし、吉郎がインタビューにあるように、持ちかけられた病院の立て直しから事業に目覚め、そして病院を立て直したら色々なM&Aが舞い込んできたという話が事実ならば、その経緯を明確に示してみるがいい。M&A対象の病院はどこか、その資金はどうやって調達したのか、立て直しのノウハウは何だったのか等を全て明らかにできるのか。病院グループの収支が赤字で益夫から厳しく叱責され、吉郎が泣きべそをかいていた姿をアイワグループの社員が何人も見ていたのだ。そんな吉郎に病院を立て直すどれほどの力量があったのか、吉郎自ら明らかにすべきではないか。(以下次号)

「病院グループは自分が創業した」と大ボラを吹く吉郎(2)

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病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は、益夫が昭和61年に買収し、吉郎が同病院の理事長に就いたのは平成11年のことである。益夫は病院を買収するたびに吉郎を理事長職に就かせたが、それは益夫が反社会的勢力と密接な関係にある事が周知の事実であったことと、いくつもの前科前歴があって、厚生省や地元自治体が許可しなかったから、益夫も止むを得ずダミーを立てるしかなく、吉郎の成長を待って順次理事長に就かせ、益夫自身はオーナーとして病院グループに君臨した。牛久愛和総合病院も同様だった。そして平成11年当時、3つの金融機関の不正融資事件が表面化したことで、金融機関からの本格的な債権回収を受けることを見越して、益夫はアイワグループと病院グループを切り離す工作を進めた。吉郎は益夫に言われるまま理事長としての役割を演じていたに過ぎない。
田中氏によれば、東京本部を開設したものの、傘下のどの病院も収支のバランスが合わず、不足資金は「全て種子田益夫氏から資金援助を受けておりました」と陳述している。そこには何の知識も経験もない吉郎の出る幕など全く無かったのが実情だった。
とはいえ、益夫はさらに経営不振に陥った病院を買収し続け、既存の病院と共に維持を図っていく資金の調達を迫られた。債権者から融資を受け始めた平成5年から同6年にかけて、益夫は返済もろくにしないままさらに融資を受け続けたのである。債権者の手元にある公正証書は4通あって、6000万円と1億2000万円、15億円の3通が平成6年8月16日付、1通は25億円で同年10月13日に作成されている。これら合計41億8000万円(元金)のほぼ全てが病院施設の買収資金になり維持費に消えたのだ。債権者への返済がない中で新たな融資を依頼する種子田に債権者が「これ以上は無理だ」と言うと、益夫はあろう事か債権者が知る森重毅ほか数人の名前が書かれたメモを差し出し、それぞれに連絡をして融資をお願いして欲しいという。益夫の依頼は執拗で、債権者が連絡を取るまで帰ろうともしなかった。債権者は、益夫が金を調達するまでは梃子でも動きそうにない様子に呆れ果てた。そうした中で益夫が「病院を担保に入れます。病院は備品のコップ一つまで全部私のものですから」と言い、さらに「病院の理事長は息子の吉郎にさせていますが、吉郎は『父からの預かり物なので、必要に応じていつでもお返しします』と言っているので、何の問題もありません」と言うのを債権者たちは何度も聞いて、融資に応じてきた経緯があった。債権者たちによる益夫への融資はその後も続いていたが、益夫は借りる一方で返済を滞らせ続けた。
平成8年頃になると、武蔵野信用金庫と国民銀行を巡る不正融資事件が表面化したことで益夫の周辺が慌ただしくなり、ただでさえ債権者たちから逃げ隠れしていた益夫がさらに連絡を疎かにして債権者たちから足を遠ざけていた。そして東京商銀信用組合でも不正融資事件が表面化すると、益夫は検察の取り調べを理由に電話で直接応対することも無かったようだ。
この間、益夫の秘書的な存在だった梶岡K氏や田中氏が、経理担当者の北條紀美子が作成した債権債務の計算書を携えて債権者の会社を訪ねてきて、債権者に担保で預けた手形や小切手等の切り替えが行われていた。
前述したように益夫は病院を担保にすると言っていたが、債権者たちがいくら手続きを進めようとしても曖昧な態度を取り続け、「病院を監督している厚生省(現厚労省)や地元自治体の監視が厳しく、なかなかクリアーできないので、しばらく時間を下さい」と言い訳をし、それに代わるものとしてアイワグループの事業であるゴルフ場の会員権を大量に持ち込んだり、イタリアのゴルフ場の売却代金や会員権の販売代金を返済に充てるという念書を差し入れていたが、会員権はすでに益夫が定員を上回る数を乱売していたために、評価はほとんどなかった。そのため、債権者が病院を担保にする手続きをするよう求めても、「少し時間を下さい。必ず約束は守りますから」と言う益夫の言葉を田中氏も梶岡氏も何回も聞いていた。

平成15年5月、益夫がようやく債権者の会社を訪ねて来た。その際に益夫は経理担当者が作成した計算書に捺印することで債務承認をしたが、その時点での債務額は元利合計で約368億円に上っていた。しかし、益夫は臆することも無く「牛久の病院は、今、500億円以上の評価があります。だから500億円まで貸してください。病院を売却して必ず返済します」と言ったのである。しかし、益夫は債権者たちに約束した病院を担保に供する手続きをすることなく、平成16年に有罪判決が下され服役してしまった。
本来であれば、病院施設の買収・維持に関わる資金を債権者から調達する際に、吉郎自身も連帯保証人として名を連ねるとともに、病院を担保提供する手続きを吉郎自身が進めるのが当然だったはずだ。「息子は、父親からの預かり物で、いつでもお返しする、と言っているので、しばらく待って下さい」と益夫は債権者に何回も言っていた。
これは、益夫が服役中にあったことだが、債権者が吉郎に会いたいと要請したのに対し、益夫の顧問弁護士を務めていた関根栄郷が「絶対に会ってはいけない」と言って厳しく止めていたようだが、それでも田中氏が一度吉郎を説得して、債権者に電話をかけさせたことがあった。しかし、その時、吉郎は債権者に「社長さんの周りは金持ちばかりなので、そちらで何とかして下さい」と言うや、一方的に電話を切ってしまい、折り返しで債権者がいくら電話をかけても吉郎は一切応答しなかった。それが、父親の指示で理事長に就いたダミー的な存在でしかなかったにしても、吉郎の取るべき態度ではないことは、誰の目にも明らかだった。
関根栄郷弁護士は、益夫が依頼していた15人ほどの弁護士が益夫のやり方に愛想をつかして辞めていく中で一人残った悪徳弁護士として有名だった。毎晩のように銀座に出かけ、その費用は全て益夫が出していたようだが、それほど関根は益夫とはズブズブの関係にあった。債権者が銀座に出向いた店で益夫と関根が出会うことも何回かあったようだが、益夫と関根はいつも債権者の席にやって来た。そして頭を垂れながら「必ず返済します」と言って挨拶していたが、吉郎の債権者への非常識な対応を誘発したのは関根であったから、関根も弁護士にあるまじき悪質な人間であったことが分かる。

しかし、吉郎は何を勘違いしたのか、益夫が3つの金融機関から不正融資を引き出し、株投機ほかに注ぎ込んだ事件で東京地検や警視庁の捜査対象になり、結局は逮捕起訴されるに至ると、何一つ責任を取ろうとせず、それどころか病院グループをアイワグループから切り離す工作に奔走したのである。仮にそれが益夫の同意があってのことだとしても、病院グループ創設の当初から益夫の資金に全てを頼り、経営方針の指示まで受け、お飾りにしろ各病院施設の理事長に就いてきた吉郎が率先してやるべきことではない。まして、病院グループの買収・維持資金を出した債権者に対して取るべき態度ではなかった。
しかも、益夫の服役中には田中氏はアイワグループのゴルフ場経営会社に追いやられていたが、益夫が出所した後に田中氏が「病院グループに戻りたい」と言うと、益夫が拒否した。恐らくは病院グループの経営が軌道に乗りつつあったことに加え、益夫自身も吉郎から煙たがられていたために、その実情を田中氏に知られたくはなかったのかも知れない。それで、田中氏は退職することになったが、病院グループの基盤を盤石に築いた田中氏に対して益夫はわずか100万円の退職金しか出さず、さらに吉郎も益夫が田中氏にプレゼントしていたロレックスの時計を取り上げてしまった。益夫も吉郎も、功労者である田中氏に感謝する気持ちがカケラも無く、追い出したも同然だった。(以下次号)

「病院グループは自分が創業した」と大ボラを吹く吉郎(3)

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益夫はアイチや富国開発など、名うての金融業者から頻繁に借り入れをし、また益夫が一番に懇意にしていた暴力団からも株投機ほかで資金調達をすると同時に毎月のようにみかじめ料を支払っている関係にあったが、益夫が服役中には暴力団関係者の取立に対応していたのは他ならぬ吉郎自身だった。それほど益夫の下で益夫の代行を務めていた吉郎が何の責任も果たさないというのは明らかにおかしい。
すでに病院の幹部も承知していたが、吉郎は毎月6000万円の機密費(裏金)を益夫に届けていた。もちろんこれは各病院の経理や財務を操作して作った裏金だから、各病院は毎月のように粉飾を強いられたことになる。明らかに吉郎には社会人としての節度やコンプライアンス感覚が全くないと言っても過言ではない。
また、3つの金融機関を巡る不正融資が表面化する中で、検察や警察、国税等に押収されては困る多くの書類を益夫が密かに隠しこもうとしたが、段ボール箱で13箱以上にもなる書類群が全て債権者の下に持ち込まれる事態が起きた。それに驚いた益夫が最も昵懇にしていた暴力団の「芳菱会」に取り戻しを依頼し、同組織の幹部が何度も債権者に脅しをかける事態が起きた。「書類を返さなければ、タマ取るぞ、殺すぞ」という言葉さえ何度も口に出して、執拗に電話を架けて来た幹部に、債権者は怯むことは無かったが、その後、同組織のトップが直接債権者の会社を一人で訪ねてくるようになった。応対したのは会社の管理職だったが、トップは自身が持病で余命があまりないことまで告げ、自分が生きている間は益夫に対しては静観して置いて欲しいと依頼した。トップは益夫が債権者には返済を滞らせていたことに腹を立てつつ、吉郎は益夫以上に悪質であると強調した。こうした経緯を踏まえて、債権者はしばらく様子を見ることにしたようだが、益夫はもちろん吉郎もまた、それをいいことにして債権者を蔑ろにし続けたのである。

吉郎の悪質さを象徴しているのが、益夫の死後、吉郎だけでなく安郎と益代の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取ったことであった。確かに益夫のような波乱の生き方をしてきた人間の遺産を継げば、それこそ危険な状況に陥る可能性もあるかもしれないが、それよりも吉郎の念頭にあったのは、間違いなく債権者から逃れる手段だった。しかし、これほど非常識で無責任なことはない。吉郎がすべきことは最低でも債権者に会って父親の非礼を詫びることであり、さらに言えば、益夫が長年にわたって滞らせ続けた債務の返済処理について具体的な話を進めることにあったはずだ。ところが吉郎にはそんな考えは一切なかった。
吉郎と益代、そして安郎は今、都心の一等地にそびえる超高級マンションに暮らし、吉郎の長男佑人もまた家族とは別に同様の暮らしをしているが、その生活を支えているのが、債権者たちから騙し取った資金を使って病院グループを軌道に乗せた結果でもたらされたものであるという認識が全くないことには呆れ返るばかりだ。しかも吉郎は妻の実家が要職を占める常仁会傘下の白美会には他の医療法人よりも手厚い資金提供や医師、看護師等の人材を優先的に派遣するという独善的な差配をして、内部から顰蹙を買っているというし、また一部には、益夫の死後も機密費を作り続け、それで私腹を肥やしているという指摘もあるほどだが、もちろんこのまま吉郎の悪事が闇に埋もれることは決してないし、埋もれさせてはならないのである。(つづく)

病院グループを創業した益夫を排除しても吉郎体制の崩壊は間近か(1)

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愛和総合病院を中核とした7つの施設からなる病院グループの“総帥”である種子田吉郎は、父益夫のダミーとして愛和総合病院の理事長に就任して以降、益夫が全国各地の病院を相次いで買収するたびに理事長に就いて現在に至っている。しかし、医師の資格がなければ理事長にはなれなかった当時、何故、資格のない吉郎がその高いハードルを越えることができたのか、という謎を抱えたまま吉郎は病院グループを束ねる「東京本部」のトップに君臨した。
しかしこれは、吉郎にとって理事長としての不適格性が明確に問われる疑惑だ。さらに益夫が病院を担保に供すると約束して多くの債権者から融資を受けながら、いざとなると公共性を盾に病院に担保設定をさせなかったばかりか、債務弁済を一切行わない中で「病院は私には関係ない」という主張を繰り返すようになった。それは、益夫が不正融資事件で有罪となり服役したのをきっかけにして、益夫を病院グループから排除しただけでなく、家族や親族からも遠ざけてしまったことによるが、益夫はその実情を周囲には秘匿していたのだった。
吉郎は理事長として益夫が債権者から巨額の資金を借入して病院の維持拡充に充当してきた経緯を全て承知していたにもかかわらず、それを「親の問題」として無視し続け、一切解決しようとしなかった。それは、病院という公共性の高い資産を私物化しているに等しく、明らかにコンプライアンスに抵触する。だからこそ吉郎は理事長としての不適格性を問われているのだ。

愛和グループは昭和58年頃から病院事業を始動した、その当初から益夫がオーナーであり、その後、吉郎が各病院の理事長に就いたが、あくまで益夫のダミーに過ぎなかったのは紛れもない事実である。
益夫に請われて、当初から病院事業に参画した側近の田中延和は弁護士に宛てた書面の中で、全て益夫の指示の下に、買収した病院を指揮するための東京本部を開設し、自らは専務取締役本部長に就き、吉郎を常務に据えた事実を明らかにした上で、病院の収支バランスを取っていくための資金はもちろん、病院グループの傘下に入る病院の買収資金が全て益夫からの資金で賄ったことを明らかにしていた。また、同じく愛和総合病院の初期の院長だった故村山良介、東邦大学医学部の医師を病院グループに数多く派遣していた事実を知る永田勝太郎など何人もの医師たちが、益夫が病院グループのオーナーであることを証言してきた。

益夫が債権者から負った債務の弁済に、吉郎は親族の一人として、また病院グループのトップを益夫から任された者として責任を全うする義務がある。それにもかかわらず、吉郎が債務問題だけには一切関知しない姿勢を取り続けてきた行為は道義的にも社会的にも問われなければならない。

なお、益夫は、出身である宮崎で昭和50年代に観光事業を手がける中で、すでに広域指定暴力団の「企業舎弟」という肩書きを有しており、反社会的勢力の世界では主に金融業界で跋扈してきたが、平成10年代には武蔵野信用金庫や東京商銀信用組合を巡る事件等で逮捕起訴され、有罪判決を受けた。益夫が吉郎宛に送った手紙にもある通り、医師会から自治体に対して「特別監査請求」が出され、益夫が各病院の役員を退くことで事を収めた経緯があり、吉郎が理事長に就くことになった。しかし、益夫が反社会的勢力の企業舎弟として有していた人脈が絶えることはなく、吉郎もまた同様の人脈を少なからず有していたと指摘する人もいる。益夫に指示されるまま“裏金”というべき資金を病院グループで調達して益夫に供与しているとの指摘は以前からあった。吉郎自身が病院の幹部たちに「父(益夫)にはウラで毎月6000万円を渡すから、何もしないで欲しい、と言ってある」という話を何回もしているのだから、これ以上の裏付けは必要ないくらいだ。もっとも、吉郎がそのような話を平気で言えるというのは、吉郎自身が何をやっても問題にならないと世の中を甘く見ているからに違いないが、それは大学を卒業後間もなくして東京本部でグループの各病院を統括しつつ、医師の資格がなくても理事長になれたのが吉郎の力量ではなく、全て益夫の指示があってこそと思われても仕方ないことだ。それ故、もはや吉郎に理事長の資格がないのは明白である。
こうした事実関係を踏まえて、病院を所管する厚生労働省、愛和病院グループの各病院を所管する茨城県ほか各自治体や医師会に対して、吉郎及び各病院の監査を求める市民団体が陳情、告発に動くのは必至と思われる。特に益夫が反社会的勢力の密接共生者であり、吉郎もまた同様に関わりを持ったと疑われている事実は深刻な問題であり、さらに病院グループにおいて毎月6000万円といわれる裏金を益夫に渡していたという裏金作りのメカニズムは今現在も機能している疑いがあるだけに、もはや放置することは許されない。(つづく)

病院グループを創業した益夫を排除しても吉郎体制の崩壊は間近か(2)

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種子田吉郎が率いる「常仁会病院グループ」を所管する厚労省と各県の自治体と医師会等は同病院グループに対する強力な指導強化を真剣に取り組むべきではないのか。種子田益夫が全国の病院施設を買収し、その維持継続を図るために債権者から借り入れた資金を注入してきた経緯は周知のとおりで、益夫の指示で理事長に就いた吉郎は、しかし、益夫が負った債務の処理に一切対応しようとせず、それどころか病院グループを創業した益夫を排除したうえに、「病院グループは自分が築いた」などと公言して憚らない。しかし、グループの「総帥」であるならば、益夫が病院グループに注ぎ込んだ資金の処理に対して責任を持つのは当然にもかかわらず、益夫が令和元年10月に死亡するや、いち早く相続放棄の手続きを取るという非常識かつ無責任な人間なのである。そもそも医者の資格がない吉郎が理事長に就くことはできなかったはずだが、未だに何の咎めもなく理事長の座に収まり、まるで益夫同様にグループの支配構造を強化しているが、監督官庁や医師会は、なぜそれを問題にしないのか。
例えば、日本医師会は、益夫がオーナーとして全国各地の病院を買収し常仁会グループを大きく形成する中で、同会の重責を担っていた桧田仁氏(元参院議員)が傘下の病院施設に多くの医師を派遣し就業させる協力を継続的にしていたから、益夫と吉郎との関係は極めて重大である。

吉郎は医師の資格もなく、また医療業界での経験もないまま各病院施設だけでなく病院グループを統括する東京本部の理事長に就き、現在に至るまで傘下の病院施設を事実上私物化してきた。しかし吉郎のこれまでの対応は秘密裏に病院グループの収益から毎月6000万円という多額の機密費(裏金)を調達して益夫に提供するという背任に問われ得る行為を繰り返し、さらにコンプライアンスにも抵触する言動が多々あるなど、真っ当に病院グループを統括する資格は皆無と言っても過言ではない。その指摘は多方面から寄せられているのだ。いうまでもなく、吉郎による病院グループの経営姿勢は医療法が目的としている「医療を受ける者の利益の保護及び良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制の確保を図り、もって国民の健康の保持に寄与する」ことが達成し得ないばかりか、告発を前提とした刑事事件に発展する可能性が高く、治療の最前線にある病院が混乱することは必至なのだ。厚労省の大臣や医政局長はその点をどのように受け止めているのか。
常仁会病院グループのオーナーであった益夫が債権者に負っている多額の債務について、益夫が病院を担保に供し、仮に債務の返済が難しい場合には病院を売却して返済原資にするとの約束を反故にしている事実を踏まえ、吉郎はそれを全て承知していながら、益夫が負う債務について一切知らぬ振りを決め込んで来たが、それはまさに反社会的な行為であり、コンプライアンスにも重大に抵触するものと思われる。益夫は平成8年以降に表面化した金融機関を巡る不正融資事件で罪を問われたが、債務は返済しておらず、金融機関の破綻処理に国の税金が投入されたにもかかわらず、吉郎以下益代(故人)、安郎の弟妹が益夫の死亡直後に揃って相続放棄をした行為は、決して許されるものではないのだ。(つづく)

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