愛和総合病院を中核とした7つの施設からなる病院グループの“総帥”である種子田吉郎は、父益夫のダミーとして愛和総合病院の理事長に就任して以降、益夫が全国各地の病院を相次いで買収するたびに理事長に就いて現在に至っている。しかし、医師の資格がなければ理事長にはなれなかった当時、何故、資格のない吉郎がその高いハードルを越えることができたのか、という謎を抱えたまま吉郎は病院グループを束ねる「東京本部」のトップに君臨した。
しかしこれは、吉郎にとって理事長としての不適格性が明確に問われる疑惑だ。さらに益夫が病院を担保に供すると約束して多くの債権者から融資を受けながら、いざとなると公共性を盾に病院に担保設定をさせなかったばかりか、債務弁済を一切行わない中で「病院は私には関係ない」という主張を繰り返すようになった。それは、益夫が不正融資事件で有罪となり服役したのをきっかけにして、益夫を病院グループから排除しただけでなく、家族や親族からも遠ざけてしまったことによるが、益夫はその実情を周囲には秘匿していたのだった。
吉郎は理事長として益夫が債権者から巨額の資金を借入して病院の維持拡充に充当してきた経緯を全て承知していたにもかかわらず、それを「親の問題」として無視し続け、一切解決しようとしなかった。それは、病院という公共性の高い資産を私物化しているに等しく、明らかにコンプライアンスに抵触する。だからこそ吉郎は理事長としての不適格性を問われているのだ。
愛和グループは昭和58年頃から病院事業を始動した、その当初から益夫がオーナーであり、その後、吉郎が各病院の理事長に就いたが、あくまで益夫のダミーに過ぎなかったのは紛れもない事実である。
益夫に請われて、当初から病院事業に参画した側近の田中延和は弁護士に宛てた書面の中で、全て益夫の指示の下に、買収した病院を指揮するための東京本部を開設し、自らは専務取締役本部長に就き、吉郎を常務に据えた事実を明らかにした上で、病院の収支バランスを取っていくための資金はもちろん、病院グループの傘下に入る病院の買収資金が全て益夫からの資金で賄ったことを明らかにしていた。また、同じく愛和総合病院の初期の院長だった故村山良介、東邦大学医学部の医師を病院グループに数多く派遣していた事実を知る永田勝太郎など何人もの医師たちが、益夫が病院グループのオーナーであることを証言してきた。
益夫が債権者から負った債務の弁済に、吉郎は親族の一人として、また病院グループのトップを益夫から任された者として責任を全うする義務がある。それにもかかわらず、吉郎が債務問題だけには一切関知しない姿勢を取り続けてきた行為は道義的にも社会的にも問われなければならない。
なお、益夫は、出身である宮崎で昭和50年代に観光事業を手がける中で、すでに広域指定暴力団の「企業舎弟」という肩書きを有しており、反社会的勢力の世界では主に金融業界で跋扈してきたが、平成10年代には武蔵野信用金庫や東京商銀信用組合を巡る事件等で逮捕起訴され、有罪判決を受けた。益夫が吉郎宛に送った手紙にもある通り、医師会から自治体に対して「特別監査請求」が出され、益夫が各病院の役員を退くことで事を収めた経緯があり、吉郎が理事長に就くことになった。しかし、益夫が反社会的勢力の企業舎弟として有していた人脈が絶えることはなく、吉郎もまた同様の人脈を少なからず有していたと指摘する人もいる。益夫に指示されるまま“裏金”というべき資金を病院グループで調達して益夫に供与しているとの指摘は以前からあった。吉郎自身が病院の幹部たちに「父(益夫)にはウラで毎月6000万円を渡すから、何もしないで欲しい、と言ってある」という話を何回もしているのだから、これ以上の裏付けは必要ないくらいだ。もっとも、吉郎がそのような話を平気で言えるというのは、吉郎自身が何をやっても問題にならないと世の中を甘く見ているからに違いないが、それは大学を卒業後間もなくして東京本部でグループの各病院を統括しつつ、医師の資格がなくても理事長になれたのが吉郎の力量ではなく、全て益夫の指示があってこそと思われても仕方ないことだ。それ故、もはや吉郎に理事長の資格がないのは明白である。
こうした事実関係を踏まえて、病院を所管する厚生労働省、愛和病院グループの各病院を所管する茨城県ほか各自治体や医師会に対して、吉郎及び各病院の監査を求める市民団体が陳情、告発に動くのは必至と思われる。特に益夫が反社会的勢力の密接共生者であり、吉郎もまた同様に関わりを持ったと疑われている事実は深刻な問題であり、さらに病院グループにおいて毎月6000万円といわれる裏金を益夫に渡していたという裏金作りのメカニズムは今現在も機能している疑いがあるだけに、もはや放置することは許されない。(つづく)