益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説

益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(1)

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種子田益夫が息子の吉郎や安郎から面会を拒否され、自分が作り上げた病院にも「来てはいけない」と宣言されて、必死な思いで病院の出資証券を吉郎から取り戻そうともがく中、吉郎の妻から見舞いの手紙をもらったことで書いた返事である。この手紙が実際に投函されたかは不明だが、そこには吉郎の非道さをさりげなくではあるが詰る表現が何カ所もある。吉郎が、病院は自分がM&Aをしてグループを構築した、と周囲に吹聴していることに抗議もしている。以下、抜粋ではあるが、文面を取り挙げる。

《おはようございます。幸さんより手紙をもらい、また、私の好物のお菓子まで送ってくださって、誠にありがとうございます。まさか幸さんから手紙でもくださるということは夢にも思ってなく、手紙をもらったと、すぐ、明子に報告いたしました。

(写真:種子田益夫)

まあ、いろいろと、幸さん、あったと思います。いろいろと、いいことも悪いこともあったと思います。しかし、幸さんも努力して、3人の孫を立派な大学に入れてくださったことに対して、本当に心から感謝しております。一生懸命だったと思います。死に物狂いだったと思います。
それと別に、これだけは、幸さん、分かってください。私は学もないし、頭も悪い。それで明子と結婚しました。明子と結婚して、時間がたつにつれて、明子が、「お父さんの仕事はパチンコだ、養豚場だ、不動産だということを書くのは、学校で書くのは嫌だから」、せめて子どもなんかが社会人になったり、学校のことなんかであるときには、気が引けることではなく、職業は何でもいいと思うんだけども、女としていろいろそばにおられるから、本人も、何といいますか、ちゃんとした職業の婦人であるということが言いたかったんでしょう。それで私に「お父さん、子どもだけは、私たちが学校で嫌な思いをして書くのは嫌だ」と、「子どもなんかは世間で立派に認められるような職業にしてください」と何回も何回も頼まれました。それは「お父さん、私は、これだけだから、何か、お父さん、考えてください」ということから、「社会で認められるということは、まあ、弁護士か病院経営か、そのようなもんだな」と、「しかし、弁護士には到底なれないだろうから、病院を俺が作るわ」と、また「病院も買うわ」と言って、本当に死に物狂いで、慣れない仕事に、朝4時、5時に起きて病院に行き、掃除をし、庭を作ったり、あらゆることをし、向こうとも話をして、平均的にやれるように土台を作り、しかし、私の仕事とちゃんぽんしてはいけないので、ゴルフ場のほうには関係なく、病院は独立で、病院ということにしました。》

吉郎や安郎、そして益代が「父親の仕事を知られるの嫌だ」と母親に抗議をしていることを聞き、益夫が病院の経営に乗り出したという動機が語られている。早朝から仕事をこなして病院経営を軌道に乗せて行ったというが、それは吉郎自身の実績では全くないことを吉郎の妻にも力説しているのだ。これを読む限り、吉郎が妻には本当の話をしていない可能性もある。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

《しかし毎月、毎月、毎月、それは当然です。病院はあるけども、患者が入ってないんだから、社員はいっぱいおるんだから、その毎月の支払いが莫大な金額でした。しかしそれを払い続けて、やって、吉郎が大学を終わるころには、そこそこの患者が入るようになっていましたから、もう一息だなということでおりました。
ところが私のいろいろな問題が、私らだけじゃなく、バブルの関係で、いっぺんに何もかも出てしまったのです。しかし、何が何でも子どもには病院を残すということで明子と約束して、「お父さん、それができれば、私はお父さんには何も言わないよ」と言ってくれていましたので、しかし、病院は出来上がったけども、私が後から銀行事件、脱税事件、いろいろなりましたから、それで普通は絶対あり得ないことです、バクチ業種は全部調査が入るんです。しかし私は検察庁も警察も国税も頼んで、「ほかの件は、一切、全て私は理屈を言わずに、私がかぶるから、病院だけには手を入れないでくれ」と、「病院だけには、家宅捜索、そういうものは入れなくちゃいけないだろうけど、入れないでくれ」ということをお願いし、検察庁も税務署のほうも「分かりました」ということで、守ってくれました。また、病院をやっていくについては、出資金は全額私のものだから、これが変なことになるといけないからということで、それもちゃんと特捜部で預かるようにして、税務署と一緒に預かるようにして、封印して預かってくれました。
まあ、その後、帰って来て、それは自分で一生懸命やった病院だから、幸さん、分かってください。帰って来てから、牛久もほかの病院も、誰にも分からんように、どういうふうになったんかなと思って見に行きました。しかしそれが吉郎君とヤスロウ君(安郎)の逆鱗に触れて、「なぜ病院を見に行った? なぜ病院に行った? なぜ病院の中を歩いた? 絶対許さない」という手紙が来ました。私は病院は社会的なもんだから、立派にしとるかなと思って、掃除もきれいしてあるかな。経営はうまくいってるかなって見に行って来たつもりですけども、それも分からないように、さっと行って来たんですけども、散々叱られました。まあ、それは一生懸命やってるから、いいことだと思います。》

吉郎は、益夫が出所後に病院に顔を出すと、相当な剣幕で「出入り禁止」の通告をしただけでなく、「今後、病院に現れたら、すぐに警察沙汰にする」とまで警告した。益夫が刑事事件で逮捕されることを予測して、保有する病院の出資証券の名義を吉郎に替えたのを、吉郎はチャンスと見て乗っ取り工作を進めた。そして、益夫が出所後に資金繰りで出資証券を吉郎に担保として預けると、以後、益夫が「返せ」と言っても知らぬ存ぜぬを繰り返し、名実ともに病院グループを自分の物にしたとして、周囲にも吹聴し始めたのだ。益夫は生まれ故郷では「鼻つまみ者」と嫌われ放題だったが、吉郎の冷酷さ、独りよがりの強欲さは益夫以上ではないか。

《しかし、彼らが総合病院をやったことは事実だから、あまりなくそうとしないで、堂々と「うちの親父も学がないもんですから、いろいろ捕まって、税務署やら銀行やら、捕まったけども、何も人のものを泥棒したわけじゃないんだから、人を殺したわけじゃないんだから、まあ、1人しかいない親だから仕方がないと思って諦めております」と、「しかし病院は私たちが一生懸命やっていきますから、皆さん、協力してください」と言えばいいんだけども、幸さんも分かっとると思うけども、新潟から金が出たとか、彼ら、「それは、これは一切関係ない」とか、それでいいんです。一切関係がない。他人にはそれでいいんです。それを関係のない人に必要以上に言うから、皆が、分かっていますから、「何だ?」というようなことになるんだから。
まあしかし、幸さんのほうの3人の子どもも最高の学校に入れてくれて、私も何とか、曲がりなりにも、病院の理事長に、理事長常務に、吉郎君、ミツオ君のしたことについて、何とか少しは認めてもらいたいと思っております。
しかし、久しぶりの手紙、久しぶりの贈り物だったので、私も舞い上がって、うれしくて、うれしくて、うれしくて、明子にも報告をし、これでもう長いことないと私は思ってます、長いことない人生ですけども、幸さん、これで明子に、「幸さんが見舞いをくれたよ、手紙をくれたよ」と言えます。マスヨ(益代)はたまに連絡をしてくれますので、ありがたく思っております。どうか、つまらん、本当にどうにもならん、つまらん親でしたけども、許すという気持ちになって、大目に見てください。
今、私も週に3回透析に行って、朝4時に起きて、麻酔をして、7時から始まって12時に終わるんです。火、木、土、週3回、もう7年間行ってます。もう疲れました。しかし、何といいますか、いろいろ、彩夏ともユウト(佑人)とも、懲役おる時に手紙で約束をしてましたけども、それも何も実現できませんでしたけども、いつもいつも幸さんの立場、お宅たち、孫のことは陰ながら見て祈っておりますので、どうか。》(以下次号)

益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(2)

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(写真:種子田益夫)

前号に続き吉郎の妻宛の益夫の手紙を取り挙げる。益夫は、不正融資事件で有罪判決を受け服役したが、病院の出資証券は一部を手元に温存させつつ、残りを吉郎に預ける形で2億5000万円を借りたという。そして、出所後にそれを返してもらおうとしたが、吉郎から拒否された揚げ句、病院へ顔を出すことも拒まれた。さらに家族や親族にも会うことさえできず、孫が結婚したことすら人づてに聞いたという。吉郎の冷酷さが明確に分かる。

《暇になると私は理事長のことが心配でたまらないんです、正直言って。心配で、心配でたまりませんので、いつまでたっても、まだ10歳か15歳の吉郎君なんです、私の頭の中では。しかし仕事も立派にやっております。立派にやり遂げておりますので、幸さんがしっかりして、悪いことは悪いこと、いいことはいいこと、人の道を外れたら絶対にやかましく言って正してください。お願いします。本当にいろいろと言いたいけども、私が字を書けないので、今、テーブルの上にスピーカーを持って来て、録音して、これを清書してもらって、手紙にして出しますので、字が書けませんので、お許しください。
どうか3人の孫が幸せに生きるように、また幸さん、吉郎君が仲良くいるように祈ってます。
私は間違いなくもう長くはないということは、自分で分かっております。それでも一切何も言いませんので、私が何とかなったときには、身内だけで、幸さん、やってくださいね。身内だけで、誰も金にはしないからやってもらいたい。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

今日は初めていい気持ちで、私もばかじゃないけど、幸さんはこれだけ分かってください。親子だから、たまにはしゃべりたいことがあるんです。何もなくても、話したいことは頭にはあるんです。でも、会いたいな、話ししたいなと思っても、まず、20回電話をかけても、電話の1本も来ません。ヤスロウも30回かけても1本も来ません。せめて、外部に分かることじゃないんだから、私から電話が行ったら「俺に何か用事があったんか?」「いや、用事はないけども、声を聞きたかったんだよ。病院はうまく行っとるんだな」というぐらいのことなんです。それを私が、時間とか約束とか、そういうものは、もう完璧だから、電話かけたら、すぐ返事が来るものと思っとるもんだから、かけてもかけても留守電、留守電、留守電。メッセージ入れても、一切返事も来ない。
しかし、事業家は逃げてはいけない。堂々として、ましてや親父だから、何もめんどくさがらずに、まあ欲を言えば――欲ですよ、私の欲を言えば、三月にいっぺんぐらいは、「親父、どっか小さいとこで焼き鳥でも食べに行こうか」とか、「お茶でも飲もうか」と言うぐらいのことはあってよかったと思うけども、何せ、私と会うのが嫌、ものを言うのが嫌、ということ。しかし生活費だけは、今、50万ずつ、1年2カ月間送って来ております。ちゃんとありがたく受け取っとります。ありがたく受け取っとります。間違いなくやってくれていますので、感謝しています。

それも、普通であれば、もう要らないと言って、やらないほうがいいんだけども、皆が、「ロクさんの子どもさんは皆立派ですね。お父さんをちゃんとここにおらして、立派ですね」と言ってもらっていますので、私がいなくなったらどうしようともいいですけども、これも吉郎さんに迷惑掛けるつもりはなかったのです。懲役に行くので、2億5,000万担保に入れて、吉郎さんから借りました。それで帰って来て、すぐ返せる段取り、計画はしてあったから、帰って来て、返してもらおうと思ったけども、帰ってみたら、もう恥でいかんです。「恥ずかしいのをどっかで出たもので、預かります」という手紙も来てましたけども、それは吉郎君個人に預けたんですけども、それもあれは、病院のほうに12億5,000万で売られておるから、もうどうにもならん、病院から利益の10億は個人として取りたかったんだろうなと思ったから、もうそれに私は触れておらずに、黙っておるところなんです。
病院は社会の認めることだから、一歩違うと、またとんでもないことになりますから、真面目にやって、真面目にやっとってください。それは社会的に認められる仕事ですので、どうか、幸さん、もう二度と病院の土台はできません。そこを思って、大事に大事に、夫婦で協力し合って。幸さんの協力がなければできません。吉郎君もヤスロウ君も人のいいところがあるから、よく監督をして、仲良くしながらやってください。
今日はお礼のつもりでしたけれども、久しぶり、出す手紙ですので、いろいろ舞い上がって、いろいろ訳の分からんことを言ってますが、それはそれで、私の言いたいことはくみ取ってください。私の言いたいことは前向きにくみ取ってください。
私は、今、何とか皆さんの協力で、本当に人の情けというもの。皆の協力で、私は逃げて歩きません。堂々としておりますので、宮崎でも東京でも、皆が協力してくださって。バンジュンさんにしても、警察の人たちなんか、その時の事件の時の人たちは、皆守ってくれております。どうか、私も、彩夏と銀座をショッピングに歩くということが夢でした。また手紙でユウト君が何回も何回も、ビリヤードで、「ビリヤードをおじいちゃんに教えてやるから」という手紙も来てました。それを夢見て、行かないけども、夢見て、どうしとるかなと思っております。
どうか、体だけには気を付けて、皆家族、1人倒れても駄目ですから、家族全員、体だけには気付けてください。吉郎君の神経質なところはちょっと気になるから、これも早めに病院で診たほうがいいと思います。
本当に、今日は手紙、私の好物のお菓子を送ってくださったことを心から感謝しております。ありがとうございました。早速テープを手紙にして送りますので、中に訳の分からないところ、いっぱいあると思いますが、そこはいつものあれで、お宅たちの勘で読み上げてください。

幸さん、頑張るんですよ。負けてはいけない。しっかり、ビジョンは、しなくちゃいけない。女がしっかりしとるところは絶対成功します。はい。私もお母さんを苦しめたから、今は毎週お墓へ行くのが私の日課です。毎週行っとります。10年間通ってます。
どうか、罪は許してくれると思いますので、苦労掛けたな、若いのに苦労掛けたなと、すまなかったという気持ちはお祈りしてあげてますので、どうかお許しください。彩夏によろしく、よろしく言ってください。どうもありがとうございました。》(つづく)

益夫が子供とその家族に宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(3)

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6年ほど前の2017年3月、種子田益夫が次男の安郎に宛てた手紙がある。益夫が資金繰りのために長男の吉郎に牛久愛和病院の出資証券を預け、2億円を調達したが、その後、吉郎が出資証券の返還を拒んだことから父子の対立が深まった。そうした渦中で吉郎が益夫からの連絡に一切対応しないため、安郎宛に手紙を送ったとみられる。

《安郎くん、夕べは遅くまで電話かけて申し訳ない。実は、○○弁護士から安郎くんの名前で、常仁会の株を預かったこともない、見たこともないという内容証明が来ましたので、それをそう言って物事が通るわけありません。確かに宮崎の裁判のために2億円要るときに、新潟の山で借りるようにしましたが、新潟の山だけでは金が出ないということで、もしこの出資金(出資証券 以下同)、私が持っているものを全て持ってきてくれということで、すぐ取りに行って、直してあったのを渡して、帝国ホテルまで持っていきました。安郎くんも吉郎くんも2人おりました。そこで渡して、送金2億円をやってもらうようにして帰りました。預かり証と言ったんだけども、後でやりますということだったから信頼して帰りました。今金を返すから、返したときには出資金を返してください、土地を返してくださいと言ったら、吉郎くんは、出資金はシュレッター掛けたと言われました。そんなことをお父さんに言えるはずがないと思ったけども、仕方がない、自分の子どもが言うことだから、何とでも言っているんだろうと。出資券(出資証券)は5億円、現金を持っていって買い取ったものであります。みんな知っています》
この流れを読んだだけでも、吉郎が牛久愛和病院の出資証券を父益夫に返さず、乗っ取りを画策した経緯が分かる。吉郎による病院グループの乗っ取りは、益夫が東京商銀事件で有罪判決を受け服役することになった平成17年前後から着実に進行していった。出資証券は益夫が病院の大株主(オーナー)である証だった。それを、吉郎は2億円の裁判費用を益夫に著辰する代わりに預かると称して騙し取ったのだ。何とも卑劣なやり方だ。親子だから事件にはならなかったようだが、以降、益夫の呼びかけに吉郎が一切応じなくなった経緯を見ても、吉郎の冷酷さが窺い知れる。

《ただ怖いのは、お父さんが悪いと言えばそれでもいいでしょう。どんな謝りもします。しかし、お父さんの弱みにつけこんで、これでもか、これでもかといじめるようなことをすると、お父さんもばかじゃないので、兵庫県の病院作るために銀行の金で別に85億円を、4つの株式を買う金、資金繰りのための部外の借金を払うのに85億をつぎ込みました。それは全部帳簿を見れば分かります。裁判所に言って帳簿閲覧を、帳簿を出してもらうように手続きを取ろうと思っております。
何もないお父さんは、お父さんとお母さんは、一生懸命働いて3人の子どもに幸せになってもらうために、どんなに苦しくても出資金は1万円も外部には出しませんでした。それは命懸け、体を張って残した出資金を、シュレッターを掛けたとか、預かった覚えはないとか見たことがないとか、それでは通らないと思う。確かに病院は私が全部作って私がやっていたんだけども、事情によって私が現場を離れなくちゃならなんなったから、その間には弁護士に任そうということで決まったけれども、しかし、種子田家で吉郎くんを信用しなけりゃ誰を信用するんだという私の気持ちがそのようになったので、預けていきました。預けていって帰ってきてから、おやじ、病院はこうこうだから、われわれでやるから資金を全部頂けるんでしょうかというぐらいのことを言うかと思うとったら、つらく私を当たって、本当に歩けないぐらい全てをやっておりました。しかしみんな裏から教えてもらいました。レイムケッテイの役員の方も私に会いに来ました。社長には一番先に会いたかったけども、息子さんのほうで、お父さんに会うといけないようなことだからとか、社員もものを言いたくても、ものを言ったらまた吉郎くんから目を付けられるということでびくびくしておるから、私のほうから遠慮して何ともものを言っていません。言う気持ちもありません。しかしあまりにも、お父さんを踏みにじったときには病院もなくなるときです。必ずなくなるときです。なぜこの前も会うと言って、ホテルまで取っていたのに、風邪だというから仕方がない、風邪なら仕方がないと思っていました。もう風邪が治って弁護士のところに行ったり、あっちに行ったりこっちに行ったりしとるんだから、晩にすぐに連絡を取って、会わなければ会わない、そう言ってくれなければお父さんは毎日約束を破るのは大嫌いだし、時間を破るのは大嫌いだから、毎日、いつ来るのかということで気を掛けています。》(以下次号)

益夫が子供とその家族へ宛てた手紙で「病院グループは私が築いた」を力説(4)

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《なんか吉郎くんに、お父さんが罪になったこと、そういうことで迷惑掛けたことは確かにあります。しかし、小さい、生まれたときから何一つ困らさず、何一つ不自由させず、お母さんと一生懸命やってきたつもりです。それがあの子には分からないんです。残念でたまりません。おやじ、きょうは焼き鳥でも食べようか。おやじ、たまには事務所にも寄れよと。たまには病院に<聞き取り不能>と言うんじゃなくて、病院に来るんじゃない、事務所に来るんじゃない、自分の子どもとも話をするんじゃないと、そういうことが通るでしょうか。そのようなことが通るでしょうか。そのようなことをして、親にそのようなことをすれば、そばで見とる人間は軽蔑します。なんだと。いくら吉郎くんが、病院は俺が作ったんだと言っても、それは自分で一生懸命やったでしょう。しかし土台を作ったのは、お父さんが土台を作ったから、その運営がやれるし、その運営が大きく出ているんだから。ささいな病院でもおやじが作ったんだなと、大きくしなくちゃいかんだなと、おやじ、お茶でも飲もうかと言わなきゃいけないんだなと。吉郎くんが作る、やるときと、私がやるときは天と地の差があります。苦しい中でやりました。患者が入らないのを入れるために一生懸命でした。患者が満杯に詰まったから私が刑務所に行ったんです。それまでは延ばして延ばして行けなかったんです。それも分からず、お父さんを恨み、お父さんをばかにし、お父さんを見下げて、せっかく心配してくれるバンジュンさんたちがおられるのに、私の関係者も安郎くんからの内容証明を見て、2人とももう許すことできないなというところまで来ました。絶対にこれは許せることじゃないというところまで来ました。しかし、待ってくださいと電話かけて、本人に聞かなきゃ本人の意志が分からないからということで、夜遅くまでおられたのです。帰った後にあなたからの電話が分かったので。
安郎くん、お父さんは人殺しをしたわけじゃない。人の物を盗んだわけじゃない。事情があって刑務所に行ったんだから、その苦しみはあんたたち子どもがきれいな気持ちで接してくれなければ、お父さんはいつもつらい思いをしていなくちゃなりません。少し言ったら、生活費も止まり、生活費を削って、いつもお母さんに、吉郎がやってくれたよと。安郎くんの分はお母さんは生きとるときから知っていました。安郎くんは優しい子だから、お父さん心配ないよと。吉郎くんは怖いと。あの人は怖い人だからと言っていましたけど、全然分からなかったけど、今になって分かります。自分の家庭が第一、あとはどうでもいい。お父さんも銀行員、および銀行にも話しに行くつもりでおりましたが、お父さんが行けば終わりになります。絶対には終わりになります。そのぐらいの自信はあります。宮崎の市長が私の開発を邪魔したから、お父さんは3カ月かかって保健所長に、市長に出てもらうように、昨日出るということを宣言してもらいました。これで宮崎市長も変わるでしょう。それも私の開発を邪魔したから、私に付いとる人たちがみんな一生懸命やってくれています。
吉郎くんも男だから、お父さんが悪いところを、お父さんを許すことができなければ、お父さん土下座突いてでも頭下げます。謝ります。しかし分からなくて、罪のことは分かるけれども、それ以外に生活でも何でも苦しめた覚えはないし。安郎くんも、吉郎くんが曲がったことで動くときには止めなくちゃいけないんだよ。止めなければ吉郎くんは刑務所行きになります。間違いなくなります。病院の経営も、出資金は私が全部持っとるから勝手に全部やっていいという法律はない。うちの弁護士も全部調べています。できることなら、お父さんもあと少ししか生きません。少ししか生きられないのを、ひがみ合って生活するよりも、生活費もやりたくなければやらなくていい。自分で働いて食べなくちゃいけないことぐらい分かっています。安郎くんのお金で助かっています。本当に安郎くんありがとう。そして私が死ぬときには、安郎くんが送ってくれた金は全部返すようにしておきます。それだけは安心しとってください。
吉郎くんも目を覚ましてもらいたい。近いうちに会って、言いたいことがあれば聞きます。怒りもしません。お父さんが悪ければ聞きます。金をやりたくなければ仕方がないです。兵糧攻めといって一番人間のやり方の汚いやり方。兵糧攻めというんです。3月31日間で宮崎のカンリユソウもやらないと言っていますけども、今見てもらえば分かります。写真も付けておきます。私の小さい土地を売った金を全部、もう20年たって、雨が降ったらカンリユソウも庭が水浸しになるので、配管から石から管から全部変えて、松の枝も切って素晴らしいものにしてあります。お父さんが死んでいってもきれいなもんでなるように、全部終わりました。あと1年生きるか2年生きるか知らないけれども、もう歩くこともままならない、飛行機に乗ることも大変な作業です。しかし、働かなけりゃ食えないので、頑張って何とか食っていきます。
安郎くん、絶対曲がったことに加担してはいけない。うそに加担してはいけない。そのしっぺ返しのひどいものが返って、あなたたちも1回でも警察にお世話になると、もうこれで病院の役員もやっていけませんよ。お父さんの二の舞だけはしないでください。出資金も帝国ホテルに、あそこで持って来いと言われるから、悔しかったけれども、アリノミだから言われるまましなくちゃいかんから持っていった。今度はそれをシュレッターに掛けたとか、もらった、取った覚えはないとか、出資金は●ないとか。国税局が預かっておって、国税局からもらって、国税局の印鑑が付いてあるじゃないですか。そんなものを自分が勝手に苦し紛れに言ってはいけない。これが自分の子だから黙っておりますけども、他人さまだったら絶対許しません。弁護士だっても許しません。このことは、テープですから手紙に訳して送りますから、吉郎くんにも見せてやってください。お父さんをばかにしてもいいけども、ぼけとるわけじゃないから。そういう預かったものを預かってない、そういう人間にはならないようにと、この手紙を見せてやってください。
安郎くん、いつもお世話になります。頑張るんですよ。頑張って、そういう真っすぐなことで頑張ってください。弁護士のところへ行って金を取られて、うそ八百書いて、お父さんに手紙出しても通りません。お父さんは全部裏付けを持っています。証拠を持っています。証拠のないことは言いません。私の知り合いの人も、安郎くんだけは話が分かるように言ってあるんだけどなと、分かってくれてないのかなと非常に残念がってました。お父さんの電話だけは、お母さんがいなくなってからお父さんも寂しいので、何も用事はないけども、どうしとるんかなと思ったときに電話かけたときには、なにも会うわけじゃない、電話ぐらいは出てください。それが人間の道です。人間の道を外さないでいてください。おやじ、なんか用事か、いや用事ないよと。声を聞きたいだけですよと。そのぐらいはやっても罰は当たらないと思う。学校出てからすんなりとお父さんの土台を作ったところで働けて、その土台を作った人をばかにし、いじめ、それで吉郎は楽しんどるんです。しかし一遍は私と、あれだけの手紙を私にやったんだから一遍は番重さん立ち会いで会っておかなきゃいけないので、今月の15日ぐらいまでに会うようにするように言ってください。申し訳ないです。(以下次号)

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