種子田益夫が逮捕前に必死で隠した機密書類の中身

種子田益夫が逮捕前に必死で隠した機密書類の中身(1)

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種子田益夫が3つの金融機関を不正融資で破綻させたことが発覚したのは平成8年の武蔵野信用金庫を巡る事件を警視庁捜査2課が摘発したのが始まりだった。2年後の平成10年に国民銀行が金融庁から712億円の債務超過を指摘される中でカミパレス(歌手の石川さゆりの関係会社)に対する約90億円の不正融資が発覚して国民銀行が破綻、さらに3年後の平成13年に東京商銀信用組合の理事長(金聖中)の特別背任事件が東京地検特捜部により摘発され同信組も破綻した。カミパレスに対する不正融資は、石川の背後にいた種子田益夫が実行したことは明白で、国民銀行の不良債権を引き継いだ整理回収機構が、種子田益夫と石川に対して訴訟を起こし、判決では種子田益夫には約53億円、石川には約2億2000万円の支払命令が出されたが、これを不服とした整理回収機構が控訴する中で連帯保証をしていた石川の自宅豪邸を差し押さえたことから、石川が10億円の和解金を支払うことで決着するという経緯があった。種子田益夫が責任を果たして債務の支払いを履行していれば、整理回収機構は控訴しなかったに違いないが、逃げ回る種子田益夫からの回収の見込みが全く立たず、連帯保証をしていた石川に牙を向けたのが実情だったとみられる。
東京商銀信用組合を巡る事件は、発端は飽くまで理事長による個人的な業務上横領だったが、捜査が進む中で理事長ほか執行部が同信組の系列会社2社を通じて種子田益夫に対して株投機やゴルフ場への融資等で不正融資を繰り返していた事実が表面化し、理事長の逮捕から日を置かずして種子田益夫も逮捕されるに至った。

こうした事件の渦中で、警視庁や東京地検特捜部が種子田の会社だけでなく自宅ほか関係個所を家宅捜索する前に、種子田益夫が見られては困る多くの重要書類を密かに隠した。ダンボール箱にすると10箱以上にもなる大量の書類だった。書類が作成された日時を見ると、やはり国民銀行の破綻と東京商銀信用組合事件が表面化し破綻に向かった時期と一致するものが少なくない。種子田が容疑に関係すると思われる書類をいち早く隠し、罪を逃れようとしてダンボール箱に詰め込んだことが第一の理由だったことが窺える。
実はこの段ボール箱に詰め込まれた大量の書類がオーナーのもとに運び込まれた直後、それを知った益夫が慌て、日常的にボディガードを依頼していた暴力団の組長に頼んで取り返そうとしたことから、組の幹部だけでなく周辺関係者達がひっきりなしに接触を図ってきた経緯があった。その時には、暴力団の幹部組員が強力な脅しをかけてきたり、逆に高額な金額での買取を提示する等様々な動きを見せたが、オーナーほか関係者たちは一切応じなかった。そうした経緯があっただけに、これらの資料群が益夫にとっては第三者の手に渡ったり公表されれば致命的となる非常に重要な機密性を帯びていた事が分かる。オーナーと債権者たちは、益夫が取り返そうとして暴力団にまで頼んだ事実を踏まえ、しばらくは静観することにして、段ボール箱をそっくり手元に確保していることさえ口外しなかった。
種子田にとって見られては困る重要書類は、多岐にわたっていた。すでに触れた金融機関、中でも東京商銀信用組合の系列2社との取引に関わるもの、種子田の秘書とみられる社員の日報、アイライフや富国開発等の名うての金融業者とのやり取りや株の仕手戦でも名を馳せた高橋治則(EIE代表)の名が登場する書類もある。
そうした中で目を引いたのが、吉郎の病院グループと種子田益夫、アイワ企業グループと病院グループが密接なつながりを持っていることが裏付けられる書類が数多く見つかっていることだ。種子田がオーナーを始めとする債権者たちから多額の資金を借り受けて病院施設を買収し、また運営維持に当たってきた事実は何人もの関係者が証言しているのだから当然だが、益夫が「いつでも病院を担保に供する」と何回も断言したり、「病院の理事長は息子にしているが、息子も病院は父からの預かり物なので、いざとなったら必要に応じていつでもお返しすると言っている」などと言って借入を繰り返したにもかかわらず、その約束を反故にしたばかりか、吉郎もまた「父親と病院は関係ない」という開き直った言い訳を繰り返して債権者との接触を拒み続けた。しかし、益夫は吉郎に指示して毎月6000万円もの裏金を出させていた事実が判明しているが、資料の中にもアイワグループ企業が病院グループから借受金の名目で資金を頻繁に調達していることを示すものが見受けられる。

しかし、例えば病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は昭和61年に、また高知愛和病院や小倉愛和病院などは、それぞれ平成5年と同9年頃にかけて愛和メディカルというアイワグループ企業が買収した(小倉愛和病院は土地建物合わせて約3億円)うえ、これも、益夫への“上納金”の一種とみられるが、愛和メディカルが賃貸人となって各病院に施設を賃貸するというやり方をしていたり、高知愛和病院の施設を拡充する際にも、吉郎がその決済を益夫に仰ぐだけでなく、承認を受けた後の資金調達でも益夫が金融業者のアイライフ(旧アイチ)から受ける融資額を膨らませつつ担保として高知愛和病院に根抵当権を設定するなどの処理がなされているのだ。しかも、この手続きは当然ながら吉郎自身が行っていた。
吉郎がいくら「父益夫と病院は関係ない」と言ったところで、各病院を買収して病院グループを形成していったのは種子田益夫自身であり、吉郎はただ益夫の指示に従って動いただけで、決済に関わることは何もしていないことが、これらの資料からも証明される。病院グループは茨城銀行ほかいくつもの金融機関から億円単位の借入を行っており、各病院施設の土地建物には抵当権や根抵当権が設定されているが、アイライフからの借入経緯を踏まえれば、益夫がアイワグループ全体の資金繰りで病院施設を担保に供しており、病院グループもアイワグループの一員であって、理事長としての職責を果たしていたのは吉郎ではなく益夫であったことが窺われる。吉郎が毎月6000万円の機密費(一病院当たり約1000万円)を作り、益夫に届けていたことは病院関係者周知の事実であった。

また、愛和メディカルが病院施設から毎月の家賃約270万円を徴収していた関係から、アイワグループに融資をしていた金融機関(国民銀行、わかしお銀行ほか)が家賃を差し押さえ、あるいは病院施設の土地建物に抵当権や根抵当権を設定する等の事態が相次いで起きていた。これらの処理も全て吉郎ではなくアイワグループの幹部社員たちが益夫の指示を受けて行っていたが、国民銀行が破綻を免れるために種子田益夫(アイワグループ)からの債権回収に必死になっていたことがよく分かる。
日報には多くの金融機関が毎日のようにアイワグループ企業に連絡を入れ、返済の督促をしている記述が見られるが、種子田益夫自身は幹部社員たちに指示を出しているだけで、幹部社員たちが返済を繰り延べさせる対応に追われている様子も窺える。
これまでにも触れて来たとおり、種子田益夫は反社会的勢力の密接な共生者としての経歴や売春防止法違反や脱税等の多くの逮捕歴がある人物だっただけに、表の金融機関がおいそれと融資に応じる訳ではなかったから、一般企業の財務状況とは明らかに異なり、名うての金融業者からの借入が常態化していた実態が日々の資金繰りを記載するファイルからも明らかだった。そうした状況の中での金融機関の経営危機(破綻)がアイワグループの経営に追い打ちをかける状況になったとみられる。(以下次号)

種子田益夫が逮捕前に必死で隠した機密書類の中身(2)

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ダンボール箱に詰め込まれた資料には、どんな秘密が隠されているのか。一つ一つのファイルや書類を精査していく中で、種子田益夫がアイワグループ企業では絶対的な存在であり、幹部社員たちまでもが益夫のことを「オーナー様」とか「種子田オーナー様」などと呼んで、極く些細なことまで文書で決裁を仰いでいる光景が浮かび上がっている。ゴルフ場系列会社の平成ゴルフ倶楽部の大阪支店が富士銀行(現みずほ銀行)のキャッシュカード1枚を新たに作った際の「お伺い」もその一例だが、支店を統括する支店長ではなく、益夫にまで稟議書を上げ、メリットやデメリットを細かく書いて許可を求めているのだ。

種子田益夫は昭和12年1月21日に宮崎県の小林市で生まれ、父親は鮮魚商をしていた。益夫は21歳の時に丸益産業を設立して金融業を始めたが、間もなく失敗して小林市を離れ神戸や岐阜、名古屋などを転々としていたという。その後、昭和45年に宮崎に戻り小林市で養豚業を始めたが、わずか3か月で失敗した。また、ドライブインの経営や金融ブローカーなども手がけたが、いずれも長くは続かず、昭和53年頃に事業の本拠地を東京に移し、不動産と金融ブローカーをしながら中央産商という会社を設立した。これがアイワグループの始まりだった。
見てきたように、益夫は事業を起こしても長続きがしなかった。それは単に経営能力だけの問題ではなく、事業をまともに進めていくという発想がなかった事に原因がある。種子田益夫はゴルフ場経営をアイワグループの中核事業に位置付けていたが、実態は会員権の乱売を繰り返したに過ぎず、個々のゴルフ場のパンフレットには病院グループを紹介して、アイワグループの信用力を高め金融機関からの借入をスムーズに進めようとした思惑が働いていた。
益夫のやり方は、金を貸した先の会社を乗っ取ったり、手を出した観光事業も宮崎の地元の金融機関の不良債権を引き受けたものでしかなかったから、事業を着実に拡充させようとする意欲がほとんど感じられなかった。しかも、益夫は借入先への返済では必ず小切手や手形を振り出して与信させるが、そこに記された期日を守ったことはなく、返済期日を繰り延べする為に小切手や手形を書き換える手続きを頻繁に繰り返していた。小倉愛和病院がある小倉市役所(今は区役所)の税務部門の担当者が「送って頂いた手形の件、5/31までに300万払ってくれませんか。あれだけの診療報酬が上がっているのに、500万位の税金が払えないのは非常識です」と電話を入れていたことが日報に記載されているが、益夫への伝言メモには担当者が「このままでは降格処分にされてしまう。必ず電話をくださいよ」とまで言って困惑している様子も書かれていて、益夫が支払いの与信で発行する小切手や手形が見せかけに過ぎないことを示す実例に違いない。債権者も融資をするたびに益夫からアイワグループ企業の手形や小切手を受け取ったが、期日通りに処理されたことは無く、何度も先延ばしを繰り返したが、益夫は債権者から融資を受ける度に「手形が不渡りになる」と言っては土下座をして額を床にこすりつけながら涙を流すのが常套手段だった。そして借り入れができて債権者の会社を出ると、同行していた部下に笑顔を見せて「上手くいった」と舌を出すような表情を見せた。土下座も演技なら涙もウソ泣きだった。益夫は借りるだけ借りておいて、返すことは何も考えていないことが分かる。そうした益夫の対応を頻繁に見せられ、益夫の人間性を嫌って途中で退職する部下が少なからずいたのである。

益夫はゴルフ場の会員権の違法な乱売を繰り返して資金調達をしたが、上がった売上の多くはアイワグループの本社ビルの建築や、銀座での飲食の豪遊等の遊興、さらには宮崎市内にそれぞれ50億円以上の費用をかけた洋風と和風の別邸のほかにも敷地数千坪を有する別荘を海沿いの郊外に所有するなどの費用に充てられた。これだけを見ても、益夫が虚業家である事が分かる。ちなみに宮崎では「種子田益夫には近づくな」と言われるほど悪行ぶりが知れ渡っていた。
吉郎は益夫が住む所を転々としていた頃に岐阜で生まれたが、幼少の頃からそういう父親を見て育ってきたからか、病院グループの理事長に就いて後にいくつかのインタビューに応じた時にも、特に父益夫との思い出については「ほとんど覚えていません」と言って話をはぐらかしてきた。それは今も変わらないが、父親が反社の人間で犯罪歴がたくさんあるということを言える訳がない。しかし、その一方で吉郎は益夫の人格を十分に受け継ぎ、というより場合によっては益夫よりもより悪質な人格を形成しているのではないかとさえ思われる。
それが、理事長として7施設の病院を擁する病院グループのトップに君臨している吉郎の今の姿に見事に表れているのではないかと思われるのだ。本来であれば、益夫が金融機関を3つも破綻させた結果、国民の血税が巨額に注ぎ込まれたにもかかわらず、一切知らぬ振りをして逃げ回り、債務不履行を繰り返していた益夫に代わって病院グループが総力を挙げて返済に努力するのが理事長でもある吉郎の責任であり当然のことなのに、吉郎以下益代と安郎の弟妹たちは一切知らぬ振りを決め込み、揚げ句には益夫の死後に揃って相続放棄をするという暴挙をやってのけたのだ。益夫は東京渋谷区内に住民登録をしていたが、実際には宮崎市内の別邸にいる事が多く、対外的には自身の所在を不明にしていたが、吉郎もまた公表していた住所地には住んでおらず、実際には家賃が200万円を超える外国人ビジネスマン向けの超高額のマンションに住むという姑息なことを長らく続けて来た。場合によっては債権者からの差し押さえを危惧して自宅を所有していないという発想かもしれないが、そこまでするのも父親譲りとすれば、あまりにも度の過ぎる悪知恵と言わざるを得ない。
益夫と吉郎による債務不履行は、金融機関だけではなく、オーナーを始めとする債権者たちに対しても同じであった。

種子田益夫とアイワグループ、種子田益夫と病院グループ、そしてアイワグループと病院グループという、このトライアングルの一角を、益夫は関根栄郷という悪徳弁護士に知恵を絞らせて法的な関係を遮断することで益夫が作り続けた巨額の債務の返済を回避させ、病院グループを種子田一族の財産として残そうとしたのである。そして、益夫が令和元年10月13日に死亡したことで、吉郎と益代、安郎の兄弟は相続放棄という最終段階での法的手続きを取った。それは、益夫が吉郎に遺した遺言であったのだろうが、吉郎には個人としても病院グループの理事長としても社会的責任を全うする感覚が一切ない。そんな人間に理事長という要職を続けさせ、また病院グループを一族が支配するなどということが許されていいはずはない。

ダンボール箱から取り出せば山のようになる資料の中には、実体として益夫が病院グループのオーナーであり、全ての差配を振るって権限を行使して来た事実が数多く残されている。
一つの例を挙げれば、高知愛和病院を巡る平成9年当時の報道記事がある。同病院は地元では老人病院として有名なほど患者は高齢者ばかりだったが、衰弱患者が1年で20人も出る、つまり健全な治療をせず、患者を衰弱死させてしまうような方針を取っていたことが大きく報道されたのだ。
これに対し、本来ならば理事長たる吉郎が陣頭指揮を執って事態の収拾に当たるにもかかわらず、実際に動いたのは益夫と関根弁護士だった。益夫は目先の対応として、一旦病院を第三者に売却(約7億4000万円)する体裁を作り、その後にほとぼりが冷める時期を見計らって再び病院グループに組み込むという乱暴な手段を講じたのである。そこには公共性の高い病院としての使命感は微塵もなく、ただ患者を一切無視して実利だけを追い求める姿勢しかない。
今、吉郎が率いる病院グループには多くの介護老人施設があるが、その経営姿勢に問題は無いのか。吉郎もまた、学習院大学の大学院でホスピス(終末医療)の研究を専攻し修士課程を終えたという学歴を有しているが、果たしてその成果が実際の介護施設で生かされているのかは大いに疑問としなければいけないと思われる。
ここで触れている内容は沢山の資料の中でもほんの一部に過ぎない。今後も精査を続ける中で、未だ明らかになっていない新事実が多く見えて来るに違いない。そうなれば、もはや吉郎はひた隠しにして来た、父親が反社会的勢力の密接共生者であった事実はもちろん、さも吉郎自身が常仁会病院グループをM&Aにより構築したという姑息な作り話など誰からも信用されないことを自覚せざるを得なくなる。(つづく)

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