種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ

種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(1)

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「私がM&Aで病院グループを構築した」と言う種子田吉郎の大うそ
種子田益夫が病死したのは今から4年ほど前の令和元年10月13日のことだった。それが大きな理由になったのか、「常仁会病院グループ」(晴緑会、明愛会、白美会の各医療法人を傘下に全国に7医療施設)の理事長の座にある長男の吉郎が、病院グループをさも吉郎自身が創設から築き上げて来たかのような発言を大っぴらに繰り返しているようだ。そうした事実など一切ないにもかかわらず、何故そんな大きな口が叩けるのか。病院グループの創設に関わった関係者の多くが死亡し、あるいは益夫が率いていたアイワグループから去って行った中で、「私が支配者だ」と広言しても誰からも吉郎に対して抗議はおろか文句の一つも出るはずがない、とでも思っているのだろうか。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

インターネット上で経営者を紹介する「注目社長情報館」というサイトがあり、そこで吉郎がインタビューに答えているが、その一部を以下に抜粋する。
〖私(吉郎)の性分では、サラリーマンには向いていないということを自分でも理解してました。そんなことを考えていた時に出会いがあり、倒産寸前の病院の話しを頂きました。「どうせサラリーマンは出来ないしやってみるか!」と引き受けたのが病院経営の始まりでした。その病院を立て直したら、色々なM&Aの話が舞い込む様になり、気が付いたら経営する施設が増えていたと言う状況です〗
これを読むと、吉郎は常仁会病院グループを自力で立ち上げ、現在の姿に築き上げたという印象を周囲に与えるが、全くの嘘だ。吉郎がこのインタビューの中で、父益夫の死を「一昨年」と語っているので、令和3年に収録され掲載されたものだろうが、もし、益夫や何人かの幹部が生きていれば、絶対に言えない嘘を吉郎は語っている。
倒産寸前の病院の話をしたのは誰か? その病院はどこにあり、どのように立て直したというのか? 吉郎には答えられるはずがない。何故ならば、吉郎は日本大学を卒業後、わずか1か月ほどアメリカの医療施設等を視察する旅行に参加した後、何の資格も経験もないまま、益夫が全資金を調達して買収した病院施設を統括する東京本部の常務に就き、それが吉郎のスタートとなったからだ。お膳立てをしたのは父の益夫であり、その側近の一人だった田中延和氏であった。その田中氏が書いた陳述書には以下のように書かれている。

(写真:益夫の側近だった田中延和氏の陳述書 吉郎が知識も経験もないまま知益夫が買収を進めた病院グループの役員に就いて行った経緯を語っている)

〖種子田益夫氏は私に病院経営を一緒にしないかと誘われ、その折、長男の種子田吉郎氏が大学を卒業したので、これを機会に1か月間アメリカの医療状況を見てくるように言われ、二人でツアーに参加しました。これが吉郎氏との出会いであり、病院経営の始まりでした。そして、大阪、高知、九州(2か所)、計4カ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り、私が専務取締役本部長になり、吉郎氏が常務というポストに就きました。基本的な方針は、種子田益夫氏から私共に指示があり、これに基づいて具体的な方針を実行していきました…〗
これを見ても分かる通り、吉郎は右も左も分からないまま、ただ田中氏に付いて周囲をうろちょろしていたに過ぎなかったのである。もし、吉郎がインタビューにあるように、持ちかけられた病院の立て直しから事業に目覚め、そして病院を立て直したら色々なM&Aが舞い込んできたという話が事実ならば、その経緯を明確に示してみるがいい。M&A対象の病院はどこか、その資金はどうやって調達したのか、立て直しのノウハウは何だったのか等を全て明らかにできるのか。病院グループの収支が赤字で益夫から厳しく叱責され、吉郎が泣きべそをかいていた姿をアイワグループの社員が何人も見ていたのだ。そんな吉郎に病院を立て直すどれほどの力量があったのか、吉郎自ら明らかにすべきではないか。

刑事事件の渦中で父益夫病院死守のために吉郎を牛久愛和病院の理事長に
病院グループの中核をなす牛久愛和総合病院は、益夫が昭和61年に買収し、吉郎が同病院の理事長に就いたのは平成11年のことである。益夫は病院を買収するたびに吉郎を理事長職に就かせたが、それは益夫が反社会的勢力と密接な関係にある事が周知の事実であったことと、いくつもの前科前歴があって、厚生省や地元自治体が許可しなかったから、益夫も止むを得ずダミーを立てるしかなく、吉郎の成長を待って順次理事長に就かせ、益夫自身はオーナーとして病院グループに君臨した。牛久愛和総合病院も同様だった。そして平成11年当時、3つの金融機関の不正融資事件が表面化したことで、金融機関からの本格的な債権回収を受けることを見越して、益夫はアイワグループと病院グループを切り離す工作を進めた。吉郎は益夫に言われるまま理事長としての役割を演じていたに過ぎない。
田中氏によれば、東京本部を開設したものの、傘下のどの病院も収支のバランスが合わず、不足資金は「全て種子田益夫氏から資金援助を受けておりました」と陳述している。そこには何の知識も経験もない吉郎の出る幕など全く無かったのが実情だった。

(写真:平成6年に作成された公正証書。6000万円、1億2000万円、15億円、25億円の4通が作成された)

とはいえ、益夫はさらに経営不振に陥った病院を買収し続け、既存の病院と共に維持を図っていく資金の調達を迫られた。債権者から融資を受け始めた平成5年から同6年にかけて、益夫は返済もろくにしないままさらに融資を受け続けたのである。債権者の手元にある公正証書は4通あって、6000万円と1億2000万円、15億円の3通が平成6年8月16日付、1通は25億円で同年10月13日に作成されている。これら合計41億8000万円(元金)のほぼ全てが病院施設の買収資金になり維持費に消えたのだ。債権者への返済がない中で新たな融資を依頼する種子田に債権者が「これ以上は無理だ」と言うと、益夫はあろう事か債権者が知る森重毅ほか数人の名前が書かれたメモを差し出し、それぞれに連絡をして融資をお願いして欲しいという。益夫の依頼は執拗で、債権者が連絡を取るまで帰ろうともしなかった。債権者は、益夫が金を調達するまでは梃子でも動きそうにない様子に呆れ果てた。そうした中で益夫が「病院を担保に入れます。病院は備品のコップ一つまで全部私のものですから」と言い、さらに「病院の理事長は息子の吉郎にさせていますが、吉郎は『父からの預かり物なので、必要に応じていつでもお返しします』と言っているので、何の問題もありません」と言うのを債権者たちは何度も聞いて、融資に応じてきた経緯があった。債権者たちによる益夫への融資はその後も続いていたが、益夫は借りる一方で返済を滞らせ続けた。
平成8年頃になると、武蔵野信用金庫と国民銀行を巡る不正融資事件が表面化したことで益夫の周辺が慌ただしくなり、ただでさえ債権者たちから逃げ隠れしていた益夫がさらに連絡を疎かにして債権者たちから足を遠ざけていた。そして東京商銀信用組合でも不正融資事件が表面化すると、益夫は検察の取り調べを理由に電話で直接応対することも無かったようだ。

(写真:債権債務の計算書 平成15年当時、益夫が返済を滞らせ続けたために債務総額は368億円余に膨らんでいた)

この間、益夫の秘書的な存在だった梶岡氏や田中氏が、経理担当者の北條紀美子氏が作成した債権債務の計算書を携えて債権者の会社を訪ねてきて、債権者に担保で預けた手形や小切手等の切り替えが行われていた。
前述したように益夫は病院を担保にすると言っていたが、債権者たちがいくら手続きを進めようとしても曖昧な態度を取り続け、「病院を監督している厚生省(現厚労省)や地元自治体の監視が厳しく、なかなかクリアーできないので、しばらく時間を下さい」と言い訳をし、それに代わるものとしてアイワグループの事業であるゴルフ場の会員権を大量に持ち込んだり、イタリアのゴルフ場の売却代金や会員権の販売代金を返済に充てるという念書を差し入れていたが、会員権はすでに益夫が定員を上回る数を乱売していたために、評価はほとんどなかった。そのため、債権者が病院を担保にする手続きをするよう求めても、「少し時間を下さい。必ず約束は守りますから」と言う益夫の言葉を田中氏も梶岡氏も何回も聞いていた。(以下次号)

種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(2)

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「牛久の病院は時価500億です」と言いさらなる融資を依頼
平成15年5月、益夫がようやく債権者の会社を訪ねて来た。その際に益夫は経理担当者が作成した計算書に捺印することで債務承認をしたが、その時点での債務額は元利合計で約368億円に上っていた。しかし、益夫は臆することも無く「牛久の病院は、今、500億円以上の評価があります。だから500億円まで貸してください。病院を売却して必ず返済します」と言ったのである。しかし、益夫は債権者たちに約束した病院を担保に供する手続きをすることなく、平成16年に有罪判決が下され服役してしまった。

(写真:種子田益夫)

本来であれば、病院施設の買収・維持に関わる資金を債権者から調達する際に、吉郎自身も連帯保証人として名を連ねるとともに、病院を担保提供する手続きを吉郎自身が進めるのが当然だったはずだ。「息子は、父親からの預かり物で、いつでもお返しする、と言っているので、しばらく待って下さい」と益夫は債権者に何回も言っていた。
これは、益夫が服役中にあったことだが、債権者が吉郎に会いたいと要請したのに対し、益夫の顧問弁護士を務めていた関根栄郷が「絶対に会わせてはいけない」と言って厳しく止めていたようだが、それでも田中氏が一度吉郎を説得して、債権者に電話をかけさせたことがあった。しかし、その時、吉郎は債権者に「社長さんの周りは金持ちばかりなので、そちらで何とかして下さい」と言うや、一方的に電話を切ってしまい、折り返しで債権者がいくら電話をかけても吉郎は一切応答しなかった。それが、父親の指示で理事長に就いたダミー的な存在でしかなかったにしても、吉郎の取るべき態度ではないことは、誰の目にも明らかだった。
関根栄郷弁護士は、益夫が依頼していた15人ほどの弁護士が益夫のやり方に愛想をつかして辞めていく中で一人残った悪徳弁護士として有名だった。毎晩のように銀座に出かけ、その費用は全て益夫が出していたようだが、それほど関根は益夫とはズブズブの関係にあった。債権者が銀座に出向いた店で益夫と関根が出会うことも何回かあったようだが、益夫と関根はいつも債権者の席にやって来た。そして頭を垂れながら「必ず返済します」と言って挨拶していたが、吉郎の債権者への非常識な対応を誘発したのは関根であったから、関根も弁護士にあるまじき悪質な人間であったことが分かる。

益夫が病院の出資証券名義を吉郎に変更するや事実上の乗っ取りを断行
しかし、吉郎は何を勘違いしたのか、益夫が3つの金融機関から不正融資を引き出し、株投機ほかに注ぎ込んだ事件で東京地検や警視庁の捜査対象になり、結局は逮捕起訴されるに至ると、何一つ責任を取ろうとせず、それどころか病院グループをアイワグループから切り離す工作に奔走したのである。仮にそれが益夫の同意があってのことだとしても、病院グループ創設の当初から益夫の資金に全てを頼り、経営方針の指示まで受け、お飾りにしろ各病院施設の理事長に就いてきた吉郎が率先してやるべきことではない。まして、病院グループの買収・維持資金を出した債権者に対して取るべき態度ではなかった。
しかも、益夫の服役中には田中氏はアイワグループのゴルフ場経営会社に追いやられていたが、益夫が出所した後に田中氏が「病院グループに戻りたい」と言うと、益夫が拒否した。恐らくは病院グループの経営が軌道に乗りつつあったことに加え、益夫自身も吉郎から煙たがられていたために、その実情を田中氏に知られたくはなかったのかも知れない。それで、田中氏は退職することになったが、病院グループの基盤を盤石に築いた田中氏に対して益夫はわずか100万円の退職金しか出さず、さらに吉郎も益夫が田中氏にプレゼントしていたロレックスの時計を取り上げてしまった。益夫も吉郎も、功労者である田中氏に感謝する気持ちがカケラも無く、追い出したも同然だった。
益夫はアイチや富国開発など、名うての金融業者から頻繁に借り入れをし、また益夫が一番に懇意にしていた暴力団からも株投機ほかで資金調達をすると同時に毎月のようにみかじめ料を支払っている関係にあったが、益夫が服役中には暴力団関係者の取立に対応していたのは他ならぬ吉郎自身だった。それほど益夫の下で益夫の代行を務めていた吉郎が何の責任も果たさないというのは明らかにおかしい。
すでに病院の幹部も承知していたが、吉郎は毎月6000万円の機密費(裏金)を益夫に届けていた。もちろんこれは各病院の経理や財務を操作して作った裏金だから、各病院は毎月のように粉飾を強いられたことになる。明らかに吉郎には社会人としての節度やコンプライアンス感覚が全くないと言っても過言ではない。
また、3つの金融機関を巡る不正融資が表面化する中で、検察や警察、国税等に押収されては困る多くの書類を益夫が密かに隠しこもうとしたが、段ボール箱で13箱以上にもなる書類群が全て債権者の下に持ち込まれる事態が起きた。それに驚いた益夫が最も昵懇にしていた暴力団の「芳菱会」に取り戻しを依頼し、同組織の幹部が何度も債権者に脅しをかける事態が起きた。「書類を返さなければ、タマ取るぞ、殺すぞ」という言葉さえ何度も口に出して、執拗に電話を架けて来た幹部に、債権者は怯むことは無かったが、その後、同組織のトップが直接債権者の会社を一人で訪ねてくるようになった。応対したのは会社の管理職だったが、トップは自身が持病で余命があまりないことまで告げ、自分が生きている間は益夫に対しては静観して置いて欲しいと依頼した。トップは益夫が債権者には返済を滞らせていたことに腹を立てつつ、吉郎は益夫以上に悪質であると強調した。こうした経緯を踏まえて、債権者はしばらく様子を見ることにしたようだが、益夫はもちろん吉郎もまた、それをいいことにして債権者を蔑ろにし続けたのである。

益夫の病死と同時に相続放棄の手続き
吉郎の悪質さを象徴しているのが、益夫の死後、吉郎だけでなく安郎と益代の弟妹が揃って相続放棄の手続きを取ったことであった。

(写真:吉郎の自宅マンション。家賃は月額200万円以上と超高額だ)

確かに益夫のような波乱の生き方をしてきた人間の遺産を継げば、それこそ危険な状況に陥る可能性もあるかもしれないが、それよりも吉郎の念頭にあったのは、間違いなく債権者から逃れる手段だった。しかし、これほど非常識で無責任なことはない。吉郎がすべきことは最低でも債権者に会って父親の非礼を詫びることであり、さらに言えば、益夫が長年にわたって滞らせ続けた債務の返済処理について具体的な話を進めることにあったはずだ。ところが吉郎にはそんな考えは一切なかった。

(写真:吉郎の弟安郎の自宅マンション)

吉郎と益代(故人)、そして安郎は今、都心の一等地にそびえる超高級マンションに暮らし、吉郎の長男佑人もまた家族とは別に同様の暮らしをしているが、その生活を支えているのが、債権者から騙し取った資金を使って病院グループを軌道に乗せた結果でもたらされたものであるという認識が全くないことには呆れ返るばかりだ。しかも吉郎は妻の実家が要職を占める常仁会傘下の白美会には他の医療法人よりも手厚い資金提供や医師、看護師等の人材を優先的に派遣するという独善的な差配をして、内部から顰蹙を買っているというし、また一部には、益夫の死後も機密費を作り続け、それで私腹を肥やしているという指摘もあるほどだが、もちろんこのまま吉郎の悪事が闇に埋もれることは決してないし、埋もれさせてはならないのである。(以下次号)

種子田益夫を絶縁して病院グループを乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(3)

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警視庁や東京地検特捜部が種子田の会社だけでなく自宅ほか関係個所を家宅捜索する前に、種子田益夫が見られては困る多くの重要書類を密かに隠したことは前号でも触れたが、それらはダンボール箱にすると10箱以上にもなる大量の書類だった。書類が作成された日時を見ると、やはり国民銀行の破綻と東京商銀信用組合事件が表面化し破綻に向かった時期と一致するものが少なくない。種子田が容疑に関係すると思われる書類をいち早く隠し、罪を逃れようとしてダンボール箱に詰め込んだことが第一の理由だったことが窺える。

(写真:種子田益夫)

実はこの段ボール箱に詰め込まれた大量の書類が債権者のもとに運び込まれた直後、それを知った益夫が慌て、日常的にボディガードを依頼していた暴力団の組長に頼んで取り返そうとしたことから、組の幹部だけでなく周辺関係者達がひっきりなしに接触を図ってきた経緯があった。その時には、暴力団の幹部組員が強力な脅しをかけてきたり、逆に高額な金額での買取を提示する等様々な動きを見せたが、債権者ほか関係者たちは一切応じなかった。そうした経緯があっただけに、これらの資料群が益夫にとっては第三者の手に渡ったり公表されれば致命的となる非常に重要な機密性を帯びていた事が分かる。債権者と債権者たちは、益夫が取り返そうとして暴力団にまで頼んだ事実を踏まえ、しばらくは静観することにして、段ボール箱をそっくり手元に確保していることさえ口外しなかった。

種子田にとって見られては困る重要書類は、多岐にわたっていた。すでに触れた金融機関、中でも東京商銀信用組合の系列2社との取引に関わるもの、種子田の秘書とみられる社員の日報、アイライフや富国開発等の名うての金融業者とのやり取りや株の仕手戦でも名を馳せた高橋治則(EIE代表)の名が登場する書類もある。
そうした中で目を引いたのが、吉郎の病院グループと種子田益夫、アイワ企業グループと病院グループが密接なつながりを持っていることが裏付けられる書類が数多く見つかっていることだ。種子田が債権者を始めとする債権者たちから多額の資金を借り受けて病院施設を買収し、また運営維持に当たってきた事実は何人もの関係者が証言しているのだから当然だが、益夫が「いつでも病院を担保に供する」と何回も断言したり、「病院の理事長は息子にしているが、息子も病院は父からの預かり物なので、いざとなったら必要に応じていつでもお返しすると言っている」などと言って借入を繰り返したにもかかわらず、その約束を反故にしたばかりか、吉郎もまた「父親と病院は関係ない」という開き直った言い訳を繰り返して債権者との接触を拒み続けた。しかし、益夫は吉郎に指示して毎月6000万円もの裏金を出させていた事実が判明しているが、資料の中にもアイワグループ企業が病院グループから借受金の名目で資金を頻繁に調達していることを示すものが見受けられる。

病院グループの中核になる牛久愛和総合病院は昭和61年に、また高知愛和病院や小倉愛和病院などは、それぞれ平成5年と同9年頃にかけて愛和メディカルというアイワグループ企業が買収した(小倉愛和病院は土地建物合わせて約3億円)うえ、これも、益夫への“上納金”の一種とみられるが、愛和メディカルが賃貸人となって各病院に施設を賃貸するというやり方をしていたり、高知愛和病院の施設を拡充する際にも、吉郎がその決済を益夫に仰ぐだけでなく、承認を受けた後の資金調達でも益夫が金融業者のアイライフ(旧アイチ)から受ける融資額を膨らませつつ担保として高知愛和病院に根抵当権を設定するなどの処理がなされているのだ。しかも、この手続きは当然ながら吉郎自身が行っていた。

(写真:藤牧秀信の陳述書。吉郎が各病院から機密費を作り、総額6000万円を毎月益夫に届けていた事実を語っている)

吉郎がいくら「父益夫と病院は関係ない」と言ったところで、各病院を買収して病院グループを形成していったのは種子田益夫自身であり、吉郎はただ益夫の指示に従って動いただけで、決済に関わることは何もしていないことが、これらの資料からも証明される。病院グループは茨城銀行ほかいくつもの金融機関から億円単位の借入を行っており、各病院施設の土地建物には抵当権や根抵当権が設定されているが、アイライフからの借入経緯を踏まえれば、益夫がアイワグループ全体の資金繰りで病院施設を担保に供しており、病院グループもアイワグループの一員であって、理事長としての職責を果たしていたのは吉郎ではなく益夫であったことが窺われる。吉郎が毎月6000万円の機密費(一病院当たり約1000万円)を作り、益夫に届けていたことは病院関係者周知の事実であった。

愛和メディカルが病院施設から毎月の家賃約270万円を徴収していた関係から、アイワグループに融資をしていた金融機関(国民銀行、わかしお銀行ほか)が家賃を差し押さえ、あるいは病院施設の土地建物に抵当権や根抵当権を設定する等の事態が相次いで起きていた。これらの処理も全て吉郎ではなくアイワグループの幹部社員たちが益夫の指示を受けて行っていたが、国民銀行が破綻を免れるために種子田益夫(アイワグループ)からの債権回収に必死になっていたことがよく分かる。
日報には多くの金融機関が毎日のようにアイワグループ企業に連絡を入れ、返済の督促をしている記述が見られるが、種子田益夫自身は幹部社員たちに指示を出しているだけで、幹部社員たちが返済を繰り延べさせる対応に追われている様子も窺える。
これまでにも触れて来たとおり、種子田益夫は反社会的勢力の密接な共生者としての経歴や売春防止法違反や脱税等の多くの逮捕歴がある人物だっただけに、表の金融機関がおいそれと融資に応じる訳ではなかったから、一般企業の財務状況とは明らかに異なり、名うての金融業者からの借入が常態化していた実態が日々の資金繰りを記載するファイルからも明らかだった。そうした状況の中での金融機関の経営危機(破綻)がアイワグループの経営に追い打ちをかける状況になったとみられる。

吉郎は益夫が住む所を転々としていた頃に岐阜で生まれたが、幼少の頃からそういう父親を見て育ってきたからか、病院グループの理事長に就いて後にいくつかのインタビューに応じた時にも、特に父益夫との思い出については「ほとんど覚えていません」と言って話をはぐらかしてきた。それは今も変わらないが、父親が反社の人間で犯罪歴がたくさんあるということを言える訳がない。しかし、その一方で吉郎は益夫の人格を十分に受け継ぎ、というより場合によっては益夫よりもより悪質な人格を形成しているのではないかとさえ思われる。

(写真:吉郎の自宅マンション。家賃は月額200万円以上と超高額だ)

それが、理事長として7施設の病院を擁する病院グループのトップに君臨している吉郎の今の姿に見事に表れているのではないかと思われるのだ。本来であれば、益夫が金融機関を3つも破綻させた結果、国民の血税が巨額に注ぎ込まれたにもかかわらず、一切知らぬ振りをして逃げ回り、債務不履行を繰り返していた益夫に代わって病院グループが総力を挙げて返済に努力するのが理事長でもある吉郎の責任であり当然のことなのに、吉郎以下益代と安郎の弟妹たちは一切知らぬ振りを決め込み、揚げ句には益夫の死後に揃って相続放棄をするという暴挙をやってのけたのだ。益夫は東京渋谷区内に住民登録をしていたが、実際には宮崎市内の別邸にいる事が多く、対外的には自身の所在を不明にしていたが、吉郎もまた公表していた住所地には住んでおらず、実際には家賃が200万円を超える外国人ビジネスマン向けの超高額のマンションに住むという姑息なことを長らく続けて来た。場合によっては債権者からの差し押さえを危惧して自宅を所有していないという発想かもしれないが、そこまでするのも父親譲りとすれば、あまりにも度の過ぎる悪知恵と言わざるを得ない。
益夫と吉郎による債務不履行は、金融機関だけではなく、債権者を始めとする債権者たちに対しても同じであった。

ダンボール箱から取り出せば山のようになる資料の中には、実体として益夫が病院グループの債権者であり、全ての差配を振るって権限を行使して来た事実が数多く残されている。
一つの例を挙げれば、高知愛和病院を巡る平成9年当時の報道記事がある。同病院は地元では老人病院として有名なほど患者は高齢者ばかりだったが、衰弱患者が1年で20人も出る、つまり健全な治療をせず、患者を衰弱死させてしまうような方針を取っていたことが大きく報道されたのだ。
これに対し、本来ならば理事長たる吉郎が陣頭指揮を執って事態の収拾に当たるにもかかわらず、実際に動いたのは益夫と関根弁護士だった。益夫は目先の対応として、一旦病院を第三者に売却(約7億4000万円)する体裁を作り、その後にほとぼりが冷める時期を見計らって再び病院グループに組み込むという乱暴な手段を講じたのである。そこには公共性の高い病院としての使命感は微塵もなく、ただ患者を一切無視して実利だけを追い求める姿勢しかない。
今、吉郎が率いる病院グループには多くの介護老人施設があるが、その経営姿勢に問題は無いのか。吉郎もまた、学習院大学の大学院でホスピス(終末医療)の研究を専攻し修士課程を終えたという学歴を有しているが、果たしてその成果が実際の介護施設で生かされているのかは大いに疑問としなければいけない。(つづく)

種子田益夫を絶縁して病院を乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(4)

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牛久愛和病院の出資証券を父益夫から騙し取った吉郎

(写真:種子田益夫)

5年ほど前の2017年3月、種子田益夫が次男の安郎に宛てた手紙がある。益夫が資金繰りのために長男の吉郎に牛久愛和病院の出資証券を預け、2億円を調達したが、その後、吉郎が出資証券の返還を拒んだことから父子の対立が深まった。そうした渦中で吉郎が益夫からの連絡に一切対応しないため、安郎宛に手紙を送ったとみられる。以下、一部だが益夫の安郎宛の手紙を紹介する。

『安郎くん、夕べは遅くまで電話かけて申し訳ない。実は、○○弁護士から安郎くんの名前で、常仁会の株を預かったこともない、見たこともないという内容証明が来ましたので、それをそういって物事が通るわけありません。確かに宮崎の裁判のために2億円要るときに、新潟の山で借りるようにしましたが、新潟の山だけでは金が出ないということで、もしこの出資金(出資証券 以下同)、私が持っているものを全て持ってきてくれということで、すぐ取りに行って、直してあったのを渡して、帝国ホテルまで持っていきました。安郎くんも吉郎くんも2人おりました。そこで渡して、送金2億円をやってもらうようにして帰りました。預かり証と言ったんだけども、後でやりますということだったから信頼して帰りました。今金を返すから、返したときには出資金を返してください、土地を返してくださいと言ったら、吉郎くんは、出資金はシュレッター掛けたと言われました。そんなことをお父さんに言えるはずがないと思ったけども、仕方がない、自分の子どもが言うことだから、何とでも言っているんだろうと。出資券(出資証券)は5億円、現金を持っていって買い取ったものであります。みんな知っています』

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

この流れを読んだだけでも、吉郎が牛久愛和病院の出資証券を父益夫に返さず、乗っ取りを画策した経緯が分かる。吉郎による病院グループの乗っ取りは、益夫が東京商銀事件で有罪判決を受け服役することになった平成17年前後から着実に進行していった。出資証券は益夫が病院の大株主(オーナー)である証だった。それを、吉郎は2億円の裁判費用を益夫に調達する代わりに預かると称して騙し取ったのだ。何とも卑劣なやり方だ。親子だから事件にはならなかったようだが、以降、益夫の呼びかけに吉郎が一切応じなくなった経緯を見ても、吉郎の冷酷さが窺い知れる。

「病因の資金繰りに85億円を注ぎ込んだ」と益夫が強調
『ただ怖いのは、お父さんが悪いと言えばそれでもいいでしょう。どんな謝りもします。しかし、お父さんの弱みにつけこんで、これでもか、これでもかといじめるようなことをすると、お父さんもばかじゃないので、兵庫県の病院作るために銀行の金で別に85億円を、4つの株式を買う金、資金繰りのための部外の借金を払うのに85億をつぎ込みました。それは全部帳簿を見れば分かります。裁判所に言って帳簿閲覧を、帳簿を出してもらうように手続きを取ろうと思っております。
何もないお父さんは、お父さんとお母さんは、一生懸命働いて3人の子どもに幸せになってもらうために、どんなに苦しくても出資金は1万円も外部には出しませんでした。それは命懸け、体を張って残した出資金を、シュレッターを掛けたとか、預かった覚えはないとか見たことがないとか、それでは通らないと思う。確かに病院は私が全部作って私がやっていたんだけども、事情によって私が現場を離れなくちゃならなんなったから、その間には弁護士に任そうということで決まったけれども、しかし、種子田家で吉郎くんを信用しなけりゃ誰を信用するんだという私の気持ちがそのようになったので、預けていきました。預けていって帰ってきてから、おやじ、病院はこうこうだから、われわれでやるから資金を全部頂けるんでしょうかというぐらいのことを言うかと思うとったら、つらく私を当たって、本当に歩けないぐらい全てをやっておりました。しかしみんな裏から教えてもらいました。レイムケッテイの役員の方も私に会いに来ました。社長には一番先に会いたかったけども、息子さんのほうで、お父さんに会うといけないようなことだからとか、社員もものを言いたくても、ものを言ったらまた吉郎くんから目を付けられるということでびくびくしておるから、私のほうから遠慮して何ともものを言っていません。言う気持ちもありません。しかしあまりにも、お父さんを踏みにじったときには病院もなくなるときです。必ずなくなるときです。なぜこの前も会うと言って、ホテルまで取っていたのに、風邪だというから仕方がない、風邪なら仕方がないと思っていました。もう風邪が治って弁護士のところに行ったり、あっちに行ったりこっちに行ったりしとるんだから、晩にすぐに連絡を取って、会わなければ会わない、そう言ってくれなければお父さんは毎日約束を破るのは大嫌いだし、時間を破るのは大嫌いだから、毎日、いつ来るのかということで気を掛けています』(以下次号)

種子田益夫を絶縁して病院を乗っ取った息子吉郎の悪辣さ(5)

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「病院にも事務所にも来るな 孫と話をするな」と吉郎が吐き捨てるように言った
『なんか吉郎くんに、お父さんが罪になったこと、そういうことで迷惑掛けたことは確かにあります。しかし、小さい、生まれたときから何一つ困らさず、何一つ不自由させず、お母さんと一生懸命やってきたつもりです。それがあの子には分からないんです。残念でたまりません。

(写真:種子田吉郎 父益夫が刑事事件の渦中に置かれるや病院グルーの乗っ取り工作を進め、遂には父益夫を絶縁した)

おやじ、きょうは焼き鳥でも食べようか。おやじ、たまには事務所にも寄れよと。たまには病院に……と言うんじゃなくて、病院に来るんじゃない、事務所に来るんじゃない、自分の子どもとも話をするんじゃないと、そういうことが通るでしょうか。そのようなことが通るでしょうか。そのようなことをして、親にそのようなことをすれば、そばで見とる人間は軽蔑します。なんだと。

いくら吉郎くんが、病院は俺が作ったんだと言っても、それは自分で一生懸命やったでしょう。しかし土台を作ったのは、お父さんが土台を作ったから、その運営がやれるし、その運営が大きく出ているんだから。ささいな病院でもおやじが作ったんだなと、大きくしなくちゃいかんだなと、おやじ、お茶でも飲もうかと言わなきゃいけないんだなと。吉郎くんが作る、やるときと、私がやるときは天と地の差があります。苦しい中でやりました。患者が入らないのを入れるために一生懸命でした。患者が満杯に詰まったから私が刑務所に行ったんです。それまでは延ばして延ばして行けなかったんです。それも分からず、お父さんを恨み、お父さんをばかにし、お父さんを見下げて、せっかく心配してくれるバンジュンさんたちがおられるのに、私の関係者も安郎くんからの内容証明を見て、2人とももう許すことできないなというところまで来ました。絶対にこれは許せることじゃないというところまで来ました。しかし、待ってくださいと電話かけて、本人に聞かなきゃ本人の意志が分からないからということで、夜遅くまでおられたのです。帰った後にあなたからの電話が分かったので。

(写真:種子田益夫)

安郎くん、お父さんは人殺しをしたわけじゃない。人の物を盗んだわけじゃない。事情があって刑務所に行ったんだから、その苦しみはあんたたち子どもがきれいな気持ちで接してくれなければ、お父さんはいつもつらい思いをしていなくちゃなりません。少し言ったら、生活費も止まり、生活費を削って、いつもお母さんに、吉郎がやってくれたよと。安郎くんの分はお母さんは生きとるときから知っていました。安郎くんは優しい子だから、お父さん心配ないよと。吉郎くんは怖いと。あの人は怖い人だからと言っていましたけど、全然分からなかったけど、今になって分かります。自分の家庭が第一、あとはどうでもいい。お父さんも銀行、および銀行にも話しに行くつもりでおりましたが、お父さんが行けば終わりになります。絶対には終わりになります。そのぐらいの自信はあります。宮崎の市長が私の開発を邪魔したから、お父さんは3カ月かかって保健所長に、市長に出てもらうように、昨日出るということを宣言してもらいました。これで宮崎市長も変わるでしょう。それも私の開発を邪魔したから、私に付いとる人たちがみんな一生懸命やってくれています。
吉郎くんも男だから、お父さんが悪いところを、お父さんを許すことができなければ、お父さん土下座突いてでも頭下げます。謝ります。しかし分からなくて、罪のことは分かるけれども、それ以外に生活でも何でも苦しめた覚えはないし。安郎くんも、吉郎くんが曲がったことで動くときには止めなくちゃいけないんだよ。止めなければ吉郎くんは刑務所行きになります。間違いなくなります。病院の経営も、出資金は私が全部持っとるから勝手に全部やっていいという法律はない。うちの弁護士も全部調べています。できることなら、お父さんもあと少ししか生きません。少ししか生きられないのを、ひがみ合って生活するよりも、生活費もやりたくなければやらなくていい。自分で働いて食べなくちゃいけないことぐらい分かっています。安郎くんのお金で助かっています。本当に安郎くんありがとう。そして私が死ぬときには、安郎くんが送ってくれた金は全部返すようにしておきます。それだけは安心しとってください。
吉郎くんも目を覚ましてもらいたい。近いうちに会って、言いたいことがあれば聞きます。怒りもしません。お父さんが悪ければ聞きます。金をやりたくなければ仕方がないです。兵糧攻めといって一番人間のやり方の汚いやり方。兵糧攻めというんです。3月31日間で宮崎のカンリユソウもやらないと言っていますけども、今見てもらえば分かります。写真も付けておきます。私の小さい土地を売った金を全部、もう20年たって、雨が降ったらカンリユソウも庭が水浸しになるので、配管から石から管から全部変えて、松の枝も切って素晴らしいものにしてあります。お父さんが死んでいってもきれいなもんでなるように、全部終わりました。あと1年生きるか2年生きるか知らないけれども、もう歩くこともままならない、飛行機に乗ることも大変な作業です。しかし、働かなけりゃ食えないので、頑張って何とか食っていきます』

「この手紙を吉郎に見せなさい」と言う益夫の声も吉郎は聞こうとしない
『安郎くん、絶対曲がったことに加担してはいけない。うそに加担してはいけない。そのしっぺ返しのひどいものが返って、あなたたちも1回でも警察にお世話になると、もうこれで病院の役員もやっていけませんよ。お父さんの二の舞だけはしないでください。出資金も帝国ホテルに、あそこで持って来いと言われるから、悔しかったけれども、アリノミだから言われるまましなくちゃいかんから持っていった。今度はそれをシュレッター掛けたとか、もらった、取った覚えはないとか、出資金はないとか。国税局が預かっておって、国税局からもらって、国税局の印鑑が付いてあるじゃないですか。そんなものを自分が勝手に苦し紛れに言ってはいけない。これが自分の子だから黙っておりますけども、他人さまだったら絶対許しません。弁護士だって許しません。このことは、テープですから手紙に訳して送りますから、吉郎くんにも見せてやってください。お父さんをばかにしてもいいけども、ぼけとるわけじゃないから。そういう預かったものを預かってない、そういう人間にはならないようにと、この手紙を見せてやってください。
安郎くん、いつもお世話になります。頑張るんですよ。頑張って、そういう真っすぐなことで頑張ってください。弁護士のところへ行って金を取られて、うそ八百書いて、お父さんに手紙出しても通りません。お父さんは全部裏付けを持っています。証拠を持っています。証拠のないことは言いません。私の知り合いの人も、安郎くんだけは話が分かるように言ってあるんだけどなと、分かってくれてないのかなと非常に残念がってました。お父さんの電話だけは、お母さんがいなくなってからお父さんも寂しいので、何も用事はないけども、どうしとるんかなと思ったときに電話かけたときには、なにも会うわけじゃない、電話ぐらいは出てください。それが人間の道です。人間の道を外さないでいてください。おやじ、なんか用事か、いや用事ないよと。声を聞きたいだけですよと。そのぐらいはやっても罰は当たらないと思う。学校出てからすんなりとお父さんの土台を作ったところで働けて、その土台を作った人をばかにし、いじめ、それで吉郎は楽しんどるんです。しかし一遍は私と、あれだけの手紙を私にやったんだから一遍は番重さん立ち会いで会っておかなきゃいけないので、今月の15日ぐらいまでに会うようにするように言ってください。申し訳ないです』(以下次号)

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